問:定力が不足していることが禅の修行に不利だと分かっていながら、実際の修行過程では観行を特に好み、修定はあくまで補助的な手段として用い、むしろ観行に費やす時間の方が修定よりも長くなる。なぜこのような心理現象が生じるのでしょうか。
答:この心理は極めて普遍的で、原因は三つある。第一に、大多数の衆生が仏法を学ぶ時間が短く、善根が十分に深くないため、道心を発しておらず、仏法に対する興味や嗜好が本質的な選択を超えて表層的である。そのため長遠な心がなく、順を追って禅定を修習する時間と労力を割こうとしない。第二に、観行の思惟から生じる智慧と認識は非常に人を引きつけるもので、人は多くを知りたがり、一切の法を知りたがる。法を知った後は心理的に満足を得るため、禅定を軽視してしまう。第三に、切迫した心理があり、最終的な結果を知ることに急き立てられ、修証の実際的な過程を重視しない。第四に、意識の粗い思惟を使う習慣があり、意根の深微な思量参究に慣れていない。
よって私が説く修心の部分、実修の部分、基礎を固める部分について、多くの人が学びたがらず、「遅すぎる」「退屈だ」と感じ、順を追って修行する忍耐力がなく、意見を提言したり次第に離れていく。しかし衆生と仏教の長遠な利益と真実の利益のために、衆生の心理にただ順応し実修の部分を捨て、衆生が興味を持つ理のみを説き、衆生に淵の魚を羨むだけで網を結ばせてはならない。
衆生の長遠な利益とは、堅実な基礎を有し、心性が転換し、修行の方法を掌握することである。将来適切な師匠に遇わなくても、如何に自修するかを理解し、自修能力を備え、是非を弁別する能力を持つことである。この能力は未来世の無量劫にまで持ち越され、これに勝るものはない。このような人こそ仏教の人材である。責任ある法を伝える師匠とは、真に修行し実学を修めた人材を育成するのであって、理論的な知識の学者を養成するのではない。人材は代々受け継がれるが、知識理論は一世二世で消え去り、遠くまで伝わらない。真に伝えるべき実質がないためである。
13
+1