衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年02月17日    日曜日     第1開示 合計1268開示

万法と侶を為らざる者は何か?

龐蘊居士が馬祖道一禅師に問うた:万法と侶をなさない者は何者かと。禅師は言った:汝が一口に西江の水を吸い尽くすようになったなら、汝に語ろうと。龐蘊居士はこれを聞いて、たちまち悟った。何を悟ったのか。万法と侶をなさない、ものではないものを悟ったのである。それはどのようなものなのか。なぜ万法と侶をなさないのか。

龐蘊居士が悟ったのは自性清浄心である。この心は万法と侶をなさない。なぜなら如来蔵 (tathāgatagarbha) には色がなく、色と侶をなさず、声がなく、声と侶をなさず、香がなく、香塵と侶をなさず、味がなく、味塵と侶をなさず、触がなく、触塵と侶をなさず、法がなく、法塵と侶をなさないからである。如来蔵には六根がなく、六根と侶をなさず、六識がなく、六識と侶をなさない。如来蔵には四聖諦がなく、四聖諦の法と侶をなさず、菩薩の六度がなく、六度と侶をなさない。如来蔵には十二因縁がなく、十二因縁の法と侶をなさない。如来蔵には世間法がなく、いかなる世間法とも侶をなさない。世間がことごとく滅しても、神様は滅しない。それゆえ如来蔵こそが、万法と侶をなさない心なのである。

また、神様は万法と相混ざることがない。これが阿含経に説かれる「不相在」である。五陰十八界は如来蔵の中になく、如来蔵は五陰十八界の中にない。両者は同類ではなく、相混ざらず、一つの事物ではなく、同じものではない。それゆえ混ざり合うことができないのである。五陰が滅しても、如来蔵は滅しない。神様は自ら単独で存在することができ、いかなる一法にも依存せずに存在する。それゆえ万法と侶をなさないのである。

馬祖禅師は龘蘊居士に開示した:汝が一口に西江の水を吸い尽くす時、汝に語ろうと。実はこれはすでに語り尽くされているのであって、ただ一般の人の意識による思惟・想像・推理で知り得るものではないのである。龐蘊居士もまた機敏な人であった。この時、彼はその神様が現れて顕示するということを知った。その智慧は並々ならぬものであった。今の私たちのように、自分にはとても西江の水は飲めないし、まして飲み干すことなどできない、と考えて手放すこと、手放すことこそが悟りだ、と考えるのではない。あるいは、西江の水もまた我が心の変現であり、これも空性 (śūnyatā) である、この理をわきまえることが悟りだ、と考えるなら、そのような理解は誤りであり、我々の如来蔵の心体を悟り得ることはできず、まして如来蔵がどのように五陰と万法を生じさせるのかを知ることはできない。

それならば、我々も毎日水を飲んでいるが、みな日常の事として見過ごしてしまい、ここに秘密があることを知らない。これを「日用して知らざるを」という。趙州和尚は日ごろ、彼を訪ねて来る人に「吃茶去(茶でも飲んで来なさい)」と告げた。大禅師の言葉にはみな特別の趣意があり、別の狙いがある。惜しいことに、一般の人はその義を解せず、いたずらに一度また一度と茶を飲んで、結局は何一つ得るところがなかった。我々は茶を飲む時に、自らに問うてみるべきである。誰が茶を飲んでいるのか、茶を飲む原理とは何なのか、と。こうすれば、遅かれ早かれいつの日か、その中の秘密を悟ることができるのである。

——生如法師の開示
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