衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2023年12月20日    水曜日     第1 回の開示 合計4081回の開示

菩薩の心は空にして、五蘊に住まず修めず

菩薩摩訶薩が深甚なる般若波羅蜜多を行じている時、色に住せず習わざるは、即ち色を習うに住するなり。受想行識に住せず習わざるは、即ち受想行識を習うに住するなり。広く説くならば、十八仏不共法に住せず習わざるは、即ち十八仏不共法を習うに住するなり。何故ならば、憍尸迦よ、菩薩摩訶薩が深甚なる般若波羅蜜多を行じる時、色において住すべき・習うべきを得ず、受想行識において住すべき・習うべきを得ず、広く説くならば十八仏不共法において住すべき・習うべきを得ざるが故なり。

解釈:菩薩摩訶薩が深甚なる般若波羅蜜多を修行する際、色蘊に心を住着させず熏習しなければ、これこそ色蘊への正しい熏習に住するのである。不正な熏習とは色蘊に執着を生じること。受想行識蘊に対しても同様に、住着せず熏習しなければ正しい熏習に住しながら、住着すれば不正な熏習となる。十八仏不共法においても、住着せず熏習しなければ正しい熏習に住するのである。

その理由は、菩薩摩訶薩が般若波羅蜜多を修行する時、色蘊が不可得である理に住し、常にこの理を熏習すべきだからである。受想行識蘊の不可得、十八仏不共法の不可得についても同様に、その理に住して常に熏習すべきである。

要諦は「住」と「習」の二字にある。この内実を明らかにすれば経文が理解できる。「住」とは心が色受想行識に囚われ、執着し、愛着し、執取する状態。「習」とは心が色受想行識に触れ、熏習し、作用する過程。これが凡夫の心行であり、五蘊の真実相を見誤り、惑わされる所以である。

般若波羅蜜多を修行する菩薩は五蘊の空を照見し、五蘊に関わりながらも住着せず、執取せず、貪愛せず、心を空しくして五蘊を行じ、倒錯することなく、また阿羅漢のように五蘊を滅却することもない。

五蘊の作用は全ての身口意の行いに現れる。ここに凡夫と聖者の差別が生じる。心空なる者の身口意行と、空ならざる者との差異は、修行の深浅を示す。しかし自心が空でない者にはこの差別を弁え難く、経験と知識の枠を超える認知が困難である。

——生如法師の開示
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