大般若経原文:諸菩薩摩訶薩。深般若波羅蜜多を行ずる時。若し色に於いて住せず習わざれば、是れ色を習うに住するなり。若し受想行識に於いて住せず習わざれば、是れ受想行識を習うに住するなり。広く説いて乃至。十八仏不共法に於いて住せず習わざれば、是れ十八仏不共法を習うに住するなり。何を以っての故に。憍尸迦(キョウシカ)。諸菩薩摩訶薩。深般若波羅蜜多を行ずる時。色に於いて得る可き住す可き習う可きこと不得。受想行識に於いて得る可き住す可き習う可きこと不得。広く説いて乃至。十八仏不共法に於いて得る可き住す可き習う可きこと不得が故なり。
釈:諸菩薩摩訶薩は、深甚なる般若波羅蜜多を修行する時、もし色蘊に対し心に住着せずまた熏習しなければ、これが色蘊の熏習の中に住するということであり、これは正しい熏習である。正しくない熏習とは色蘊に住して貪執を生じることをいう。菩薩たちがもし受想行識蘊に対し、心に住着せずまた熏習しなければ、これが受想行識蘊の熏習の中に住するということであり、住着しないことが正しい熏習であり、住着することは正しくない熏習である。広く説いて乃至、十八仏不共法に対し住着せずまた熏習しなければ、これが十八仏不共法の熏習の中に住するということであり、住着しないことが正しい熏習であり、住着することは正しくない熏習である。
何故このように言うのか。憍尸迦よ、諸菩薩摩訶薩は、深甚なる般若波羅蜜多を修行する時、心は色蘊が不可得であるという義理に住すべきであり、常に色蘊が不可得であるという義理を熏習すべきである。心は受想行識蘊が不可得であるという義理に住すべきであり、常に受想行識蘊が不可得であるという義理を熏習すべきである。広く説いて乃至、心は十八仏不共法が不可得であるという義理に住すべきであり、常に十八仏不共法が不可得であるという義理を熏習すべきである。
ここでの重点は「住」と「習」の二字にある。この二字の内実を明らかにすれば、この経文を理解することができる。「住」とは、心が色受想行識に陥り、心が色受想行識に入り、心が色受想行識に着し、心が色受想行識を愛し、心が色受想行識に執し、心が色受想行識を取ることをいう。「習」とは、心が色受想行識に触れ、色受想行識を熏習し、心が色受想行識に行じ、心が色受想行識に着し、心が色受想行識を用いることをいう。
これは凡夫の心の行いであり、色受想行識に対する執取と貪着である。色受想行識の真の姿を見極めることができず、色受想行識に惑わされるため、心は顛倒して色受想行識に行じるのである。般若波羅蜜多を修行する菩薩は、色受想行識が空であることを照見すれば、色受想行識を行じる中で、住着せず、執取せず、貪愛せず、心を空しくして色受想行識に行じ、色受想行識に対し顛倒して行じることなく、また阿羅漢のように色受想行識を滅除することもない。
五蘊の作用はどのような方面に現れるのか。五蘊の作用は一切の身口意の行いに現れる。色受想行識の作用から、凡夫と聖人とを区別することができる。凡夫と聖人の身口意にはどのような差別があるのか。身口意の行いからその人の修為を弁別することができる。心が空である人の身口意の行いと、心が空でない人の身口意の行いにはどのような差別があるのか。法を証した人の身口意と、未だ道を得ていない人の身口意にはどのような差別があるのか。差別は多くかつ大きいが、自心が空でなく、変化していない人は、弁別することが極めて難しい。なぜなら認識が自らの経験と知識の外に跳び出すことが難しく、局限性が非常に大きいからである。
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