行の範囲は非常に広く、八識の行を含み、広義には運動・運行・動転・行為・変化・遷流などを指します。要するに、流転して止まない一切の現象はすべて行の範疇に属します。このように見ると、世間も出世間も行わず動かぬ事理は存在せず、如来蔵もまた常に行じており、一瞬たりとも停止したことがなく、永遠に止むことはありません。その行相は観察可能ですが、一切の行の中にあって心は寂静不動です。
なぜかと言いますと、第一に如来蔵には五遍行心所法があり、この五つの心所法は一刹那も止むことなく常に運行しており、無余涅槃の中にあっても如来蔵の五遍行心所法は運行を続けています。第二に、如来蔵自体にも自心の識種子が刹那刹那に生滅を繰り返しており、これによって如来蔵は不断に存在し続け、運行を続けることができ、一瞬の停滞もなく、故に不生不滅の心識となっているのです。
如来蔵の五遍行心所法は存在する限り運行しており、これが行です。特に思心所法は選択の意を表すと同時に、運行・運為の意味も具えています。まさに如来蔵の行が諸法の不断の生起と運行を促し、生滅を繰り返させるのです。故に広義には、如来蔵も行蘊に含まれると言えますが、この行蘊は生滅するものではありません。如来蔵は諸法を蘊集する機能を有するため、広義では識蘊とも称され、最も根本的な識蘊、不生不滅の識蘊です。まさに如来蔵の識蘊の機能体性によって、諸法を蘊集し、諸法の生滅変異を生じさせ、衆生を輪廻させ、世間を変幻自在ならしめているのです。
如来蔵の究竟的な運為とは如何なるものか。第一に、種子を出力し回収して五蘊世間の一切法を造り出し、一切法を不断に生滅変異させて寂止せず、業種を貯蔵し放出すること。第二に、業種と五蘊世間の一切法に対し、不断に触作意受想思をなして諸法を縁に随って運行せしめること。如来蔵はこのように不断に行じて寂止しませんが、微塵も如来蔵自心の寂滅無為の心性に影響せず、諸法に対し見ず聞かず欲せず求めぬ心行を保ち、諸法に動揺せず転動せぬ心行を堅持しています。
第七識の行は、十二因縁における無明の行を含み、また聖者たちの無無明の行をも含みます。無明の行は生死輪廻の行であり、無無明の行は生死を解脱する行です。第七識の行は生死と解脱の双方に対し決定的な鍵を握っており、まさに第七識の行が如来蔵に五蘊の生死輪廻業種を蘊集させ、五蘊世間を蘊集させるのです。故に再び広義において、第七識も行蘊と識蘊の範疇に属します。
六識の行は観察理解し易く、六識は依他起性に属し、受動的に現起する行です。広義・狭義を問わず、六識は識蘊に摂されます。六識が造作する身口意の行はまさに業種集起の因であり、五蘊世間現起の因、名色蘊集の因となります。受動的な蘊集とはいえ、蘊集作用の大部分を占めているのです。
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