衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2023年11月14日    火曜日     第2 回の開示 合計4049回の開示

君若蘭による五蘊観行の思考プロセスと体験

一匹の蝿が脚に止まり、痒さと煩わしさを感じる。実は脚とは色陰であり、四大の仮りの和合である。痒みとは受陰であり、受陰は全て苦であり、来ることも去ることもない。相を取ること、推論することは想陰であり、蝿もまた仮象である。痒みは一つの覚受に過ぎず、これも仮象である。蝿や覚受に名前を付け、意味を加えることが想陰である。追い払おうと決心する過程、意識が働く過程、覚受が生じる時間的経緯は行陰であり、行陰は識を縁として生じ、縁に従って現れ、縁に従って滅する。これら一切を了別するのが識陰である:識は如来蔵の種子から生じ、これも縁に従って現れ、縁に従って滅する。

五蘊は因縁和合であり、変化無常である。変化が不変でないことが即ち空である。執着すれば苦が生じ、苦受もまた仮象である。これら一切が不変でなく、主宰者なきことが無我性である。

再び蝿が脚を這う様を見ると、脚の痒みは依然あるが、内心の嫌悪感は消え、手を軽く振れば蝿は飛び去る。事件が起こったばかりなのに、何も起こらなかったかのようである。五蘊は得るべからず、我は存在せず、我の所在もない。我が蝿の脚を這う様を観るに、空対空、どこに得る所あろうか。この時内心は作為なく、一片の静寂がある。

これは弟子が事例を通して理論を明らかにしようとする思考過程であり、故に極めて初歩的である。理論が明晰になった後、弟子は少しずつ貪らず深く観じていく。師が言うように、現象に対し意識を極力加えず直接観る。核心を把握し、精進を続ける。

評:観行の思路は明瞭である。具体的な観行においては、一方で禅定を具足し、一方で精力を一点に集中させ、一点を突破して以点帯面で五蘊無我を証得すべきである。最も真実な観行を得るには、四念処経の教える方法に従い、あるがままに観じ、現にあるものを観じ、覚知したものを観じ、想像や代入を避けるべきである。四念処経が教える観行とは、意識を動かさず現象を直観し、事実に基づき脳内補完を排したものである。この観行の境地をよく味わうべきである。これができなければ深く禅定を修し、定力が不足すれば全て分析に堕し、直感が少なく現量も稀薄となる。

現代仏教修行において、殆どの団体の弘法者が教えるのは意識による観行、意識体験、意識感覚、意識分析であり、意根の修行には全く及ばない。結果として得られるのは真実の体験や観行ではなく、主観的な分析と解釈、想像が加わった虚構的なものである。修行者はこれが真の観行か参究か修行か判別できず、ただこのような思惟が容易で手間がかからず成果が出やすいと感じるため、偽りの証果が普遍化している。実際の修行がそれほど単純で容易なものだろうか。凡夫根性が聖賢に転じるなど、それほど多数存在し得ようか。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

いかにして相を見て相を離すか

次の記事 次の記事

どのような身口意の行いが道に適うのか

ページのトップへ戻る