仏説十善業道経原文:诸法集起。毕竟无主。无我我所。虽各随业。所现不同。而实于中。无有作者。故一切法。皆不思议。自性如幻。
解釈:世間の一切の法の積集と生起は、畢竟して主宰者はなく、主人もなく、我性と我所性もありません。これらの法はそれぞれ異なる業種と業縁に随って生ずるものの、現起する法相はそれぞれ異なります。しかし、これらの法が現起し滅去する過程において、実に造作者は存在せず、それゆえ一切の法はすべて思議不可であり、法の自体性は幻化されたもののようである、と言います。
法の集まりとは、業行が一箇所に召集されて業種を形成し、業種が成熟した後、業縁の輔助のもとで諸法が出生することです。しかし法の出生には、その中で主宰をなし、諸法の生住異滅を操る者はおらず、支配者は存在しません。これらの法には我性がなく、無我であり、また我の所有するところでもありません。たとえば色蘊の集起について、誰が色蘊を集起させたのでしょうか?如来蔵には集起の心行がなく、色蘊を主宰せず、意根もまた幻化されたものであり、色蘊を主宰せず、業種業縁もまた幻化されたものであり、いずれも集起の心を持ちません。それなのに色蘊は不思議にも出現したのです。色蘊は我でしょうか?我ではありません。自主性を持たず、空だからです。色蘊は我の所有するものでしょうか?これも我の所有するものではなく、空だからです。受蘊、想蘊、行蘊、識蘊もすべて同様であり、六根、六塵、六識もまたすべて同様です。
甲乙丙丁の衆生は、それぞれの業行と業種に随って六道輪廻の中に出現するものの、現れる相貌・身分・地位・福德・種族などはそれぞれ異なります。しかし実のところ、現相の中には造作者は一人もおらず、誰が衆生の六道輪廻の相を造り出したわけでもありません。それゆえ、甲の天堂の相は思議不可であり、天の相の自体性は如幻如化で、実体のある天人は存在しません。乙の人の相は思議不可であり、人の自体性は如幻如化で、実体のある人は存在しません。丙の地獄の相、丁の餓鬼の相もすべて同様に、思議不可であり、自性は如幻如化で、実体はありません。
これらの法を意識で理解するのはそれほど難しくないかもしれませんが、意識は粗い概況しか理解できず、内在する細部を知ることができません。つまり意識は具体的な原因と法の具体的な運作の状況を知ることができないのです。それは霧の中で花を眺めるように、ぼんやりとしておぼろげなものです。禅定の中で意根によって深く思量 (manasikāra/manana) してはじめて、悟り透徹することができ、すべての細部を余すところなく見渡し、その所以を知り、ここに至って法を証し、法の底源を徹することができ、以後二度と霧の中で花を眺めることなく、靴越しに痒を掻くようなことはなくなります。いかなる法に対しても、意根は思量すればするほど趣味が増し、究明したいという思いが強まり、智慧が増し、禅定が深まり、人はまるで夢中になったかのようになります。これこそ真理を探求する楽しみです。意識の浅薄な解を捨て、意根による深い思量を身につければ、ますます智慧が増し、頭の思路と論理はますます明晰になり、人はますます沈着で叡智に満ち、あらゆる難題はもはや難事ではなくなり、いずれも容易に解決されるでしょう。
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