『般若心経』において「無明もなく、無明の尽きることもない」と説かれるのは、如来蔵には無明が存在せず、したがって如来蔵には無明が尽きることもないことを指します。如来蔵は無明を破る必要がなく、煩悩を断つ必要もなく、修行する必要もなく、解脱する必要もなく、成仏する必要もありません。しかし七識五陰はそのようではあり得ず、七識五陰には無量の無明が存在するため、無明を破るための修行が必要となります。無明が完全に破られた時、初めて究竟の清浄を得て、大いなる自由自在と大解脱を成就するのです。無明を破る過程においては、修行が必要であり、戒律を守る必要があり、禅定に努める必要があり、般若の智慧を学ぶ必要があり、坐禅によって道を悟る必要があり、煩悩を断つ必要があり、証悟を成就する必要があり、成仏を目指す必要があります。成仏を果たした後、七識五蘊には無明が存在しなくなり、無明を滅尽するための修行も必要としなくなります。
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