如来蔵の真心は得ることもできず、失うこともできない。「失わず得ず」とはどういう意味か。それは不生不滅の意味である。生じないから得ず、本来より存在するからである。滅しないから生じる必要がなく、従って得る必要もない。真心そのものは無為法であり、何かを修めることで無為に至る必要はない。修めて得た無為法は七識の無為であり、やがて滅する時が来る。故にそれは依然として生滅法である。
真如無為は不生不滅であり、如来蔵に影のごとく随伴する。如来蔵は形も相もなく、互いに包容し合い、協働して一切の法を成じる。しかし包容にも包容の相はなく、ただ排斥しないだけである。仏の如来蔵と衆生の如来蔵も同様に、互いに協働し包容し合う。したがって衆生の如来蔵が仏の如来蔵に溶け込む必要はない。如来蔵は色法ではなく、内も外もなく、相互に進入し融合することはできない。色法こそが互いに融合し入ることができるのである。
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