問:『楞厳経』で説かれる「見精映色」における「見精」とは何を指すのでしょうか。
答:見精とは如来蔵の見性を指し、七大中の見大によって形成されるものです。見性は色法を映照して現出させる働きを持ちますが、この映照は生成を意味せず、既に存在する法を顕現させる作用です。ちょうど太陽の光が万物を映し出すように、如来蔵の見精は一切の色法を映照します。電灯が発光し、その光が色相を顕現させるのと同様、見精の働きによって色相が顕れることで、眼は色を認識できるのです。光の映照がなければ、眼は色を見ることができません。
見精は見大の機能作用であり、「精」とは精魂を意味します。見の精魂は仏性そのもので、仏性が一切の法を顕現させることにより、七識が諸法を認識し、五蘊の機能が躍動します。如来蔵が一切の法を生じ、仏性が如来蔵の生じた法を再び顕現させることで、五蘊が活動し龍虎の如く躍動するのです。龍虎は仮相に過ぎず、如来蔵と仏性に依って初めて顕現し、これらは全て如来蔵と仏性の妙用によるものです。
問:『楞厳経』に「阿難、汝が我を見るや、見精明元なり。此の見は妙精明知心に非ずと雖も、第二月の如し。月影に非ず」とあります。見は眼識であるのに、なぜ第二月に喩えられるのでしょうか。本体を持たない虚妄を指すのでしょうか。また「見精明元」と「妙精明知心」の表現の違いはどのような意味があるのでしょうか。
答:阿難が仏を見る際、単に眼で見るだけでなく、主に如来蔵の見性によって見、仏性をもって見るのです。仏性が認知した後に七識が認識します。如来蔵と仏性がなければ、眼も存在せず色塵も現れず、眼の機能は発揮されません。眼が色を見る時、如来蔵が意根・意識・眼識と和合して初めて色を認識します。この過程には電灯が発光し光が色法を映照するように、如来蔵の見性の働きが不可欠です。根塵が接触し、眼識と意識が色を認識するのです。
如来蔵は妙明真心であり、その見性は見精明元と呼ばれ、真心に依って存在します。これは見法の精魂であり明法の根本です。如来蔵とその見性は、灯と灯光、第一月と第二月の関係に喩えられます。見性は如来蔵の本体に依って発現する作用であり、如来蔵から生じたものではなく、一体二用の関係にあります。目を押して見える第二月のように、第二月は第一月から生じたものではなく、共に真実です。灯光が灯から生じず灯の妙用であるように、見性も虚妄ではなく真実です。如来蔵が法を見る必要があり、虚妄法が存在する限り、見性は現前するのです。
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