衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2023年04月24日    月曜日     第1 回の開示 合計3924回の開示

空々の内包

無我、法空、そして空空。ここでいう空空とはどのような意味でしょうか。空には三つの意味があります。第一に、得ることができないという意味。第二に、現象としては存在するが実質は無いという意味。第三に、存在しないという意味です。無我と法空は法界の理体、あるいは道理であり、規則や法則のようなものに似ています。これらは説き明かされ顕現した法ですが、これらの規則・法則や理体もまた空であって、不生不滅の如来蔵のような本来から存在する法ではありません。例えば、私が一を表すとすれば、無我は二を表します。一が空であるだけでなく、二もまた空である、これを空空と言います。法を甲とし、法空を乙とすれば、甲が空であるだけでなく乙も空である、これが空空です。犬小屋に犬がいなければ犬は空であり、さらに犬小屋に犬がいないという事実や道理もまた空である、これを空空と言います。

無我だけでなく、無我という道理そのものも空であり、無我という現象も空であり、無我という事柄も空です。私と無我を並べて見れば、無我も私と同じく空であることがわかります。犬小屋に犬がいなければ犬は空であり、犬小屋に犬がいないという道理も空であり、この現象も空であり、この事実も空です。空という理体そのものが空であって、本来から存在するものではなく、不生不滅のものでもありません。空という法が存在すると考えればまだ不空であり、空の法もまた空であることが真の空と言えるのです。故に空空と説くのです。

空という概念を意根の心に懸けて、数年かけて参究し、自らが直接体験によって確認する必要があります。たとえ十年、八年かかろうとも、自らの証悟に依らなければなりません。他人に尋ねても意味がなく、二十年かけ一生を費やしても価値あることです。例えば白という色について、私がどう説明し如何に譬喩を尽くしても、他人には理解できません。これはもはや私の関知するところではありません。この「他人」とはつまり目の不自由な人を指します。白色を理解するにはどうすればよいか。自らの目で白色を見るべきです。理解だけでは決して解決せず、眼を開いて直接見なければなりません。目が見えなければ色を見ることができず、耳根で聞き、鼻根で嗅ぎ、舌根で味わい、身根で触れ、意識で考えることもできません。ただ眼を開いて直に見るしかないのです。故に私は常々皆様に申し上げます。未熟で検証されていない、理解の域を出ない法を安易に説き、それを究竟の理と思い込み、自説に固執して諫言に耳を貸さないようではいけません。理解が正しいか否かに拘わらず、それは何の役にも立ちません。親しく見ることが真実なのです。

——生如法師の開示
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