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日常法話

2023年04月25日    火曜日     第1開示 合計3925開示

楞厳経における見精の機能作用

<h2 style="text-indent: 2em;">問:楞厳経に説かれている「見精映色」の見精とは何を指すのですか?</h2>

答:見精とは如来蔵の見性を指し、七大の中の見大によって形成されるものです。見性は色法を映照して現じることができ、映照とは出生することではなく、すでに出生している現存する法を顕露することであり、見性がこの働きをします。見精映色の「映」という字は映照という意味で、太陽の光が万物を映し出すように、如来蔵の見精が一切の色法を映し出すのです。電灯が光を放ち、その光が色相を顕現させるのと同じです。色相が顕現して初めて眼は色を見ることができ、もし灯の光による映照がなければ、眼は色を見ることができません。

見精は見大の機能作用であり、精とは精魂であり、見の精魂は仏性であり、仏性は一切の法を顕現させることができ、それによって七識が一切の法を見ることができ、その後に五蘊の機能が躍如とします。如来蔵は一切の法を出生し、仏性が如来蔵の出生した一切の法を再び顕現させることで、五蘊が初めて働き、生き生きと活動できるのです。龍虎は仮相であり、如来蔵と仏性に依拠して初めて顕現されるものであり、すべて如来蔵と仏性の妙用なのです。

<h2 style="text-indent: 2em;">問:楞厳経に「阿難、且に汝の我を見るを見精明元とす。此の見は妙精明心には非ざれども、第二月の如く、月影には非ず」と説かれています。見とは眼識ですが、なぜ第二月のようだと言うのですか?それは神様に本体がなく、虚妄であるという意味ですか?なぜ前では見精明元と言い、後では妙精明心と言うのですか?</h2>

答:阿難が仏を見るのは、眼だけで見るのではなく、主に如来蔵の見性によって見るのであり、仏性によって見るのです。仏性が見た後に、七識が初めて見ることができます。もし如来蔵がなく、仏性がなければ、第一に眼がなく、第二に色塵が現れず、眼の機能は働くことができません。眼が色を見るとき、如来蔵と意根、意識、眼識が和合して初めて色を見ることができます。その中にはさらに如来蔵の見性が働くことが必要で、電灯が光を放ち、その光が色法を映し出し、根塵が相触れて、初めて眼識と意識が色を見ることができるのです。

如来蔵は妙明真心であり、如来蔵の見性は見精明元であり、真心に依って存在し、法を見る精魂精霊であり、明らかにする法の根元根本です。如来蔵と如来蔵の見性とは、灯と灯光の関係であり、第一月と第二月の関係です。見性は如来蔵の本体に依って働きを起こすものであり、神様は如来蔵から出生されたものではなく、如来蔵と一体二用であり、まさに目をつまんで見る第二月のようなものであり、第二月は第一月から出生したものではなく、第一月と同じく真であり、したがって第二月が虚幻であるとは言えないのです。見性もまた灯の灯光と同じように、灯光は灯から出生したものではなく、灯の妙用なのです。それゆえ見性は虚妄ではなく、真実であり、如来蔵が法を見ようとし、虚妄の法が存在する限り、見性は現前するのです。

——生如法師の開示
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