衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2023年04月14日    金曜日     第1 回の開示 合計3917回の開示

意根の煩悩心所有法

問:もし恨みの感情が歯を食いしばるほどに至ったならば、それは意根の深い恨みであり、意根の反応であると言えますか。意根には恨みという小随煩悩が存在するのでしょうか。

答:意根は主宰する識であり、身口意の行いは意根が主宰し指揮統制します。歯を食いしばる身根の活動は意根が支配し指揮して作り出したもので、意識がどのような心思や考え、情緒を持とうとも、身体に歯を食いしばる現象を起こすよう指揮統制することはできません。意根を正常な識心として捉えれば、意根のすべての心行活動を理解しやすく、誤解も生じないのです。

意根は五陰身の主人であり、常に五陰身の一切の身口意行を主宰しています。私たちの修行とはまさに意根を修め、意根を改めることにあります。意根が三度識を転じて智となれば仏となり、もし意根に無明煩悩が存在しなければ、修行はただ意識を修めるだけでよく、意根に気を配る必要はありません。しかし実際の修行は非常に困難であり、決して単純迅速なものではありません。自己を変えるのは難しく、長期にわたる薫習、不断の内省、縁に触れて境に対し自己を調伏することを経て、ようやくわずかな進歩を得るのです。意根の無明煩悩は極めて多く深く、調伏断除が容易でないため、修行は困難に感じられるのです。

十二因縁は意根の無明がもととなり、後続する無量の生死輪廻の苦を引き起こします。これは意根が一切の無明煩悩を具足していることを示しています。もし意根に無明煩悩がなく意識のみにあるなら、無始劫来の生死輪廻の苦は存在せず、意識の無明煩悩は容易に解決できるでしょう。では改めて考えるべきです――意識の無明煩悩はどこから来るのでしょうか。

私たちが通常「我」と言うとき、それは意根を指します。「我」と言う時、意根の思想観念が現れます。根深く染みついた習気の深い「我」の思想観念、それが意根なのです。したがって意根を観察するには、自らの起心动念と習気的慣性を観察すればよいのです。「我」とは意根であり、意根を観察するとは「我」を観察することです。この角度から努力すれば困難ではありません。内心の奥深くで発見・観察が難しい思想観念はすべて意根のものであり、根深い本質的な習気煩悩と智慧もまた意根のものです。非常に隠微で知り難く改め難いのです。意識の思想観念は表面に浮かんでおり、薫習されやすく、発見も容易で、調伏し改めやすいものです。もし意根に関わらない修行であるなら、仏法を学ぶのは楽しく容易で、成仏も迅速でしょう。

意根が五蘊の中で果たすすべての機能作用は観察可能です。事実が何であり真理が何であるかを知って初めて、意根に何があり何がないかを確言できるのです。そうでなければ仏の教えのままに「汝の意を信ずるなかれ」とすべきです。自己の判断は現量観察の智慧に厳しく制限されます。智慧が不足して観察できない時は、日夜修行に励み、早日に如実観察・現量観察ができるよう努め、真実の智慧・如実の智慧・現量の智慧を得るべきです。それ以前の疑いはあくまで疑いであり、如実の結論を下せないなら結論を急ぐべきではありません。仏法修行はこのような態度を本とすれば、誤評誤判の過ちを犯さないのです。

法を貫通し連続させれば、法義を整えることができます。いかなる法も孤立して存在するものではなく、主体と主線によって結ばれています。全体として諸法の内包を把握すれば、理解し掌握しやすくなります。仏法修行は何らかの法則を暗唱することではなく、理論と実践を結びつけ、実際に観察して、遭遇する理論が理法に適い実際であるか否かを確かめることです。五蘊の作用において観行し、身口意において観察し、実践によって真知を得るよう努めるべきです。実践は真理を検証する唯一の基準であり、仏法も世俗法も同様です。仏法を学ぶとは真理を追求することであり、真理とは事実――誰も変えることのできない事実です。事実を自己の依り所とし、真理を自己の依り所とする、これが仏の教える「法に依る」ことであり、そうしてこそ成就を得て誤謬を犯さないのです。

——生如法師の開示
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『楞厳咒を用いた禅定の修得と法義参究の方法』

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十二因縁の観点から見る意根の心所法

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