衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2023年03月22日    水曜日     第1 回の開示 合計3901回の開示

凡夫は如来蔵に転依することができるでしょうか

如来蔵への転依が初歩的に成功するのは初地の菩薩位においてであり、地前の菩薩は皆懸命に転依に努め、転依を学んでいる段階です。凡夫は如来蔵を証得していないため、依り所とすることができず、如来蔵がどこにあり、どのような行相であるかを知らないのです。ではどうやって頼ることができるでしょうか?それは虚空に頼るようなもので、想像上の如来蔵は現実には見えず、依り所となり得ません。

さらに凡夫は自発的に如来蔵を利用することもできず、その所在や特性、作用、活用方法を知りません。人々は皆、如来蔵を想像しているに過ぎず、これを憶測や幻想、推測と呼びます。凡夫が推測することは許容され、七八割の推測も可能ですが、無意味です。意識が滅びれば眼前は暗黒に包まれ、茫然自失するほかありません。

転依が成功した証は心性が転換したことにあり、如来蔵に類似した心性を具え、煩悩が断除され、智慧が増長した状態を指します。転依が未完成でも、少しずつ自己を変容させ、煩悩を降伏させ、智慧を漸次増進させます。一定量が蓄積され質的飛躍に至り、煩悩が断たれ、第六識と第七識が識から智へと転じた時、初めて転依が成就します。ただしこれはあくまで初歩段階であり、完全な転依を果たせば仏となります。故に転依の成否をもって明心証悟の判断基準とすべきではありません。明心証悟には独自の証悟対象と内容が存在し、転依そのものを目標とはしません。

仏法が混乱している要因は、多くの者が実際にその道を歩まず、理解と推論に憶測を加えていることにあります。仮に八九分の推測が的中しても、それは依然として不正確です。畢竟、自ら目撃したわけではなく、心に確信が定まらないからです。猫を真似て虎を描いても、所詮本物の虎には及ばないのです。

——生如法師の開示
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第六第七識の心性を転ずることこそが転依如来蔵である

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