衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2023年03月21日    火曜日     第1開示 合計3900開示

口頭禅は修行と実証に等しくない

悟前の修行には多くの次第があり、悟後の修行にも同様に多くの次第があります。悟前に悟後の方法によって修めるなら、それは徒労に終わって益がありません。まだ門に入っていないのに、門の中のことはできないからです。開悟したばかりの人、あるいはまだ開悟していない人が、地上の菩薩の方法に従って修行しようとしても、なおさら効果は現れません。高遠な理論を手に掲げて、自分はすでに実証したのだ、聖者や如来蔵 (tathāgatagarbha) のように成れたのだと思い込むのは、まったくの自欺欺人です。多くの人は「煩悩すなわち菩提」という言葉を見ると、煩悩を如来蔵の幻化と見なすことが修行だと思い込み、煩悩を降伏させる方法を考えようとしません。その結果、煩悩はやはり煩悩のままで、菩提はやはり菩提のままで、死後もなお生死に沈淪するのです。何の益がありましょうか。

ある人は如来蔵は無修無証であると分かると、七識や五陰 (pañca-skandha) もまた無修無証であるべきだと考え、如来蔵は本来仏なのだから、自分は完全に家で仏として振る舞えばよいと思います。またある人は、一切の法は分別によって生じると聞くと、分別することもやめてしまい、分別しなければ心は空となって法もないと考えます。如来蔵は分別しないのだから自分も分別しないようにするなら、七日間飢えても何の異議も唱えるべきではない、ということになります。

一切の法が確かに幻化のようであることはその通りですが、これは十住位以上の菩薩の修行の証量です。自分がこの修行の境地に達しておらず、まだこの実際の証量がないのであれば、日々「幻化」という言葉を口に掛けて、口禅にしてはなりません。如来蔵は持戒しないので、ある人は自分も如来蔵のように持戒する必要はないと考え、任運逍遥、放浪形骸となります。自分の心には貪瞋痴が一切具足していることを知らず、どうして放浪形骸で任運逍遥などできましょうか。空談はしばしば国を誤らせます。一丈は語れても一寸も行えない人は、踏み実に実際の修行をするのが最善であり、これ以上高談闊論し、眼高手低となるべきではありません。

——生如法師の開示
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証悟如来蔵、何ぞ再び転依して初めて証悟と称するを須いんや

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凡夫は如来蔵(tathāgatagarbha)を転依できるか

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