衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2023年03月13日    月曜日     第1 回の開示 合計3896回の開示

いかにしてこそ如来蔵に依止したといえるのか

現在、多くの人々が如来蔵に依止することを語っていますが、どれもやや風を捕まえるような曖昧さがあります。なぜなら、私たちが何かに依存しようとする時、まずその存在を確認し、理解し、それが依りどころとなる価値があるか、どうすれば依りつけるか、どのような条件が必要か、依止した後にどうなるかを判断しなければなりません。これら全てを理解し考察した上で、実際の行動に移り、依止の目的を達成し、安全と利益を得るのです。如来蔵に依止する場合も同様です。例えば大樹に寄りかかって休み木陰に入る場合、まず正確にその大樹を見つけ、観察・計量し、どうやって木の下にたどり着くか、どこに寄りかかるのが適切で快適か、風雨や日差しを防げる場所はどこかを判断し、座布団を敷いて寄りかかるのです。如来蔵への依止もこの理屈と同じです。  

如来蔵に依止しようとするなら、まずそれを証得し明心見性しなければなりません。そうして初めて現前において如実に観察でき、遍く観察し、如来蔵の大まかな体性を如実に理解・観察し、誤りがなくなって初めて依りつくことができ、身心世界が変容を始めるのです。観察と照合を重ねるにつれ、五蘊の身心世界を空と観じるようになり、ついには世間の法も空じ、心性が如来蔵に次第に近づき同一化します。心性が真に転換し、貪瞋痴の煩悩汚染が除去された時、初めて私たちの心性が如来蔵に依止して転換したと言え、初步的な転依の成功と見做されます。この時すでに識を智に転じ、初地以上の大菩薩に相当します。  

もし内心にまだ貪瞋痴の煩悩が残り、汚染が甚だしく、智慧も低劣で欠落が多いなら、心は如来蔵に依止しておらず、如来蔵からも遠く離れ、身心に何らの利益も得られず、この状態は転依如来蔵とは言えません。身も転ぜず心も転ぜず、以前のままの五毒具足の身心であれば、如何なる場合でも転依如来蔵ではなく、依然として無明煩悩に依りついているのであり、如来蔵に依止しておらず、ましてや初步的な転依の成功など論じられません。 
如来蔵を証得した後、五蘊十八界の運行の中で絶えず如来蔵の作動を観察するには、少なくとも別相智と後得智が必要で、後期には道種智も必要です。そうでなければ推論と推測に属し、如来蔵の作動を想像するのは如実観察ではなく、如来蔵を観察できず、その体性を真に理解できず、依止することもできません。悟りを得た後、毎回五蘊における如来蔵の作動を観察する度に、自らの身心に触発が生じ、清浄と染汚、無心と有心を対比させ、慚愧心・自責心・向往心が生起します。時が経つにつれ次第に如来蔵の心性に影響され薫染され、煩悩を断じ識を智に転じれば、初步的な転依が成功し、完全徹底した転依が仏となります。  

如来蔵を証得した後、その清浄性をどの方面から観察するか。五蘊の作動過程、六根の作動過程において観察します。例えば色を見る時、如来蔵が如何に清浄であるか、心念や思想活動がなく、ましてや邪な心思がないかを観察します。私たちも如来蔵を手本とし、私心雑念や利己的思想、貪欲心・争奪心・占有欲などの心行を除去しなければなりません。音声を聞く時、如来蔵が如何に清浄であるか、如何なる音声に触れても如如不動で音声に転じられないかを観察します。そうすれば他人の言葉を聞く時、賞賛であれ侮辱であれ、如来蔵を手本とし極力動心しないよう努めるべきです。  

香を嗅ぎ、味を嘗め、触を覚え、法を思う時、一切の境界に直面する時、常に如来蔵の清浄さ・無私さ・無我さ・衆生への奉仕の在り方を観察します。このように観察すれば、七識心は薫染を受け、如何なる境界が現れても自心は徐々に清浄化し、無私無我が始まります。

こうして次第に転依が進み、心行が変化し、染汚が除去され、煩悩が断尽し、人空法空の大智慧が生起します。識性を智性に転じ、第六識に妙観察智が具わり、第七識に平等性智が具われば、この時初めて初步的な転依成功と言えます。それ以前は成功せず、ただ徐々に学んでいる段階です。未証悟の者は安易に転依如来蔵などと口にすべきではありません。転依から余程遠いからです。仮に証悟したばかりの人でも、転依を論ずる資格はありません。煩悩が山積し智慧が浅く、如来蔵の片鱗すら見えないからです。

——生如法師の開示
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