衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法師ウェブサイトロゴ

日常法話

2023年03月09日    木曜日     第5開示 合計3893開示

なぜ諸法はすべて空相なのか

心経原文:色は空に異ならず、空は色に異ならず、色は即ちこれ空、空は即ちこれ色なり。受想行識もまたまたかくのごとし。舎利子よ、これ諸法の空相は生ぜず滅せず、垢つかず浄からず、増えず減らず。ここをもって空中には色なく、受想行識なく、眼耳鼻舌身意なく、色声香味触法なく、眼界なく、はては意識界なく、無明なく、また無明の尽きることなく、はては老死なく、また老死の尽きることなく、苦集滅道なく、智なくまた得ることなし。

解釈:心経にはなぜこれらの「無」があるのか。唯識でどのように理解すべきか。もし唯識の七大種子の原理を用いてこの内容を解釈すれば、容易に理解できる。色受想行識の五蘊の諸法は如来蔵中の七大種子によって生成される。世俗の法相から見れば、あたかも五蘊の諸法およびその機能作用があるかのようであるが、実質から見れば、すべて如来蔵の七大種子とその作用にほかならず、したがってすべて如来蔵の機能作用である。すると五蘊の諸法の世俗相は実は仮の相であり、すべて空であり、実質的には存在しない。したがって色蘊は表面上は生滅のある世俗的現象に見えるが、その根本を究めれば、色蘊の生は七大種子の変幻であり、色蘊の滅もやはり七大種子の変幻であり、初めから終わりまで七大種子の機能作用であり、真実の色蘊というべきものはない。同様に、受想行識の四蘊もまたこのとおりで、すべて七大種子が絶えず変幻しており、受想行識の四蘊に関わることは何もない。

そして七大種子の機能作用はすなわち如来蔵の機能作用である。如来蔵は七大種子を原料として用い、揮毫し墨を洒き、さまざまな五蘊の世間を変幻して現わす。しかしどうであれ、世間相はすべて空であり、五蘊の諸法は生じたことも滅したこともなく、五蘊の諸法は垢や浄について論ずることもできない。なぜなら原料は清浄なる七大種子であり、五蘊の諸法相は空であるからである。空である以上、何を言っても戯論にすぎない。すると五蘊の諸法の空相は増えも減りもしないものであり、動いたこともなく、生じたことも滅したこともない。そして如来蔵というこの出世間の法相もまた空相であり、世間におけるいかなる相貌も持たず、これもまた生ぜず滅せず、垢つかず浄からず、増えず減らない。

したがって、如来蔵というこの空性の心、空相の心の中には何の法もなく、色蘊なく、受想行識蘊なく、眼耳鼻舌身意なく、色声香味触法なく、眼識耳識鼻識舌識身識意識なく、無明もない。無明の尽きることもなく、苦集滅道なく、十二因縁なく、はては智もなく得ることもない。すべての世俗法は究極的にはすべて如来蔵の法であり、すべて如来蔵の属性である。

相を見れば即ち誤りである。相を見ることは即ち自心が自心を取ることであり、もともと虚妄でない如来蔵を虚妄の法としてしまう。もし諸相が相にあらざるを見れば即ち如来を見る。もし五蘊が五蘊の相でないと見、五蘊の相がないと見れば、如来仏――如来蔵を見るのである。単に相が虚妄であると見るだけでは、この次元ではまだ不十分である。唯識の法から見れば、虚妄の法は即ち空であり、虚妄の法など何もない。一真法界の角度から見れば、一真なるものはすべて真であり、虚妄はない。虚妄の法こそ真実の法であり、虚妄の相は実は真実の法たる如来蔵であり、一真法界中の法であり、如来蔵性を具えている。このように見えて初めて究竟となる。唯識を学び、唯識を用いれば、これまで学んだことはすべて究竟でなく、唯識こそが最も究竟な仏法であると感じられるようになる。

——生如法師の開示
前へ前へ

識心の認識がどのような境地に達すれば、智と呼べるのでしょうか

次へ 次へ

悟りとはどのような境地か

ページトップへ戻る