衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2023年03月12日    日曜日     第1開示 合計3894開示

証悟とはいかなる境地か

心経の第一句にはこうあります。観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。深般若波羅蜜多を行じ、五蘊皆空を照見するというのは、つまり、般若の智慧を具足した如来蔵を証得した当下(その時)に、心は空となるという意味です。その中のキーワードである「行」という字は、禅を参じて般若の義理を参究するという意味であり、「深」は一つには禅定が深いことを、もう一つは参究の智慧が深く、方向が明確であることを指します。深いという前提条件のもとで、第六識と第七識が大智慧を生起し、智慧をもって法界の実相を照らし、五蘊の中の一切の法界がすべて般若心如来蔵によって現起されたものであると証得し、五蘊の実質はすべて空であり、仮相・幻化相であると知るのです。

そうなれば、心の奥底で真実の五蘊はないと知り、それによって苦はなくなり、一気に一切の苦厄を度り切るのです。すべての苦厄は如来蔵が幻化したものであり、仮相であって真実ではないのです。このように五蘊皆空を照見した後は、心は空となって無為となり、煩悩は断除されます。これが大乗見道で如来蔵を証得する功徳受用であり、これが意根の見道、意根が如来蔵の三昧(samādhi)の境界を証得することであり、定慧具足、定慧等持なのです。いわゆる照見とは頓悟という意味であり、途中でじっくりと分析・思惟してゆっくりと理解するような時間や功夫はなく、知れば知、知らなければ知らず、躊躇や曖昧さがないのです。

このように五蘊皆空を照見した後、さらに別途に如来蔵へ転依(āśraya-parāvṛtti)して初めて証悟と呼ぶのでしょうか?まったくその必要はありません。これこそが真実の、毫も曖昧さのない証悟と頓悟であり、あの種の次第に解得する、分析推理を通じて次第に明らかにしていく解悟ではありません。これで既に大乗の門に入り、真実の功徳受用を得ているのです。もし意識で推理し琢磨して如来蔵を推測し出したのであれば、そのような推測や推理には何の功徳受用もありません。それゆえゆっくりと転依する必要があるのですが、しかし意識がどれほど努力して転依しようとも、意根が証得していなければ、やはり転依成功(āśraya-parāvṛtti)にはなりません。それゆえ、後始末のできない問題が山積みとなり、煩悩は依然として煩悩であり、無明は依然として無明なのです。

定を禅とする人々のように、一念不生の禅定を修得し、これこそ真心の無念の境界だと思い込み、妄を真と認める者がいます。しかし出定すると、妄念がまた現れます。心の中で真心が消えることを恐れるあまり、絶えず定を修め、長期間禅定に耽り、出定しないように努め、定境を保任し、真心が失われないように確保しようとします。それを美名を冠して保任と呼ぶのです。しかし定境は結局は消滅するものであり、人は結局は出定するものです。たとえ無量劫出定しないとしても、定境は真心の自性ではありません。真に悟ったなら、いったい何を保任するというのでしょう?真に真心を証得したなら、いったい何を転依するというのでしょう?当下(その瞬間)にそれであり、当下に心は空となり、清浄(viśuddha/pariśuddha)となるのです。鯉が龍門を跳び越えて龍となったなら、まさか跳び戻って鯉に戻ることを恐れるなどということがあるでしょうか?そもそも龍門を跳び越えておらず、心が戦々恐々として、得失に患い惑っているからこそ、保任や転依が必要になるのです。

——生如法師の開示
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