衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2023年01月09日    月曜日     第3 回の開示 合計3808回の開示

意識と意根の同時了別及び動念

一切の法を了別する過程において、動念するか否かに拘わらず、念頭が明瞭であるか不明瞭であるか、尋の状態にあれども伺の状態にあれども、意識による了別もあれば意根による了別も存在します。法を了別する限り、この二つの識は必ず同時に存在し、その差異は誰が明瞭に了別するか、誰が不明瞭に了別するか、誰が顕著に了別するか、誰が目立たず了別するか、そして了別の主体がどちらにあるかという点にあります。念が動くやいなや、この二つの識は必ず共に現起します。なぜなら意根は意識の倶有依であり、意識が存在すれば必ず意根を伴い、意識の現起は意根の思択の結果であるからです。故に意識が動く時、意根は必然的に既に動いています。もし意根の了別と動念が欠ければ、意識は現れ得ません。

また意根は無間断の識であり、常に存在し、運行し、攀縁し、執取を続けています。瞬時も動念を止めず、絶え間なく思惟しています。ただその動きが明瞭か否か、心が散乱しているか集中しているか、執着を有するか無執着であるか、意識がその存在と心の動きを認識できるか否か、といった差異があるに過ぎません。

多くの人々は意識が動念せず、かつ意根を観察できない時、自分が現在かなり清浄であり、何の念頭もないと感じます。しかし実際この時、意根には念頭が存在し、攀縁と思量を有しています。ただ意識が智慧をもって観察していないだけです。いつ意根が決定を下すか分からず、そうなれば意識は静まることができず、何らかの行為を造作し始めます。身口意の一切の行動は、大小軽重を問わず、全て意根の思量の結果です。意根が造作を為そうとする時、意識は清浄を保てず、意根の考えに従って造作を為すこととなります。

——生如法師の開示
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