またある種類の闇昧で愚痴な者がいる。美しい睡眠に覆われ、その心は滅したように見えて実際には滅しておらず、増上慢を起こしてこれを現観であると称する。これは正しくない。このように現観に向かう心を得たならば、まもなく正性離生に入るべきである。このような寂静の心位において、最後の一念の無分別心がある。ここから間断なく前に観た諸聖諦の理に対し、内なる作意を起こす。これを世第一法と名付ける。この後、出世間の心が生じ、もはや世間心ではない。これは世間の諸行における最後の境界である。故に世第一法と称される。
解釈:ある種の人は朦朧として愚かであり、香ばしい睡眠に覆われ、心が消滅したように見えながら実際には消滅しておらず、増上慢を起こしてこれを現量観察であると思い込む。実際はそうではない。このような現量観察に向かう心を得た者は、まもなく正性離生に入るべきである。この心が消滅したように見えて実際には消滅していない寂静の心位において、最後の一念の無分別心があり、その後間断なく前に観た四聖諦の理に対し内在的な作意を生じる。これを世第一法と呼ぶ。この後は出世間の心が生じ、もはや世間心は存在しない。これは世間の諸行における最終的な境界であるため、世第一法と名付けられる。
この一節は極めて重要であり、悟りに至る直前の最終段階における心理状態と、悟り直前の最終修行方法を述べ、世第一法と悟りの境界との差異を明らかにしている。悟りに至る前、四加行位の最終段階である世第一法位にあり、この段階では睡眠の障礙が微細となり、睡眠が極めて軽く清明で、半睡半醒の状態にある。睡眠中も心は清明で朦朧とせず、身体は安楽であるため修道の障礙が小さい。心は消滅したように分別がなくなるが、依然として分別性を保持しており、ただ了別が微細で有無の境目にある。これにより愚昧な者は増上慢を起こし、自らが無心となり現観を得たと錯覚するが、実際はそうではない。
しかし現観から遠く離れておらず、精進を続ければまもなく生死を離れる正位に証入する。すなわちこの寂静の心位において、最後の一念の無分別心が存在し、この一念の無分別心を以て、その後間断なく以前に観行した四聖諦の理に対し内在的な作意を生じる。これを世間第一法と称する。この後は出世間の心が生起し、世間心は断滅する。これは世間における諸行の最後の出世間との境界であるため、世間第一と名付けるのである。
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