原文:またこのように念う。今の私にあるのは、ただ諸根のみ、ただ境界のみ、ただそれらから生じる諸受のみ、ただその心のみ、ただ仮名の我・我所法のみ、ただその見のみ、ただ仮立されるもののみがここで得られるのであって、これを除いてさらに過ぎたるもの、増したるものは何もない。このようにただ諸蘊のみが得られ、諸蘊の中には常恒不変で堅固に住する主宰者として、或いは我と説かれ、或いは有情と説かれ、あるいはまたこれについて生者・老者・病者・死者と説かれるものはなく、あるいはまたそれらが諸業を造り、種々の果及び異熟を受けると説かれることもない。これによって諸行はことごとく空であり、我がないがゆえにである。このように、無所得の行によって空行に趣入するとなづける。
釈:瑜伽行者はさらにこのような念いを起こす。今の私にはただ諸根のみがあり、ただ境界のみがあり、ただ根と境の接触から生じる諸受のみがあり、ただ感受する心のみがあり、ただ仮名の我と我所の法のみがあり、ただ知見のみがあり、ただ仮立された法のみが得られるのであって、これ以外にこれを超えるさらなる法は何もない。同様に、私にはただ諸蘊のみが得られ、諸蘊の中には常恒不変で堅固に住する主宰者、すなわち我として説かれるものも、有情として説かれるものもなく、あるいはまたこれらの法を生者・老者・病者・死者と説くこともなく、あるいは諸蘊が諸業を造り、種々の果及び異熟を受けると説くこともない。この道理によって、諸行はことごとく空であり、その中に我がないことが明らかとなる。このように、無所得の行によって空行に趣入すると名づけるのである。
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