『持世経』原文:仏は持世に告げたまわく、いわゆる菩薩摩訶薩が識陰を正しく観察し選択するとは何か。菩薩摩訶薩は、陰ならざるがこれ識陰なりと観ず。顛倒の陰はこれ識陰なり。虚妄の陰はこれ識陰なり。なぜならば、持世よ、この識陰は顛倒より起こり、虚妄の縁に繋がれ、先業より有して現在の縁に繋がれ、衆因縁に属し、虚妄にして無所有なるが故なり。
釈:仏は持世菩薩に告げたまわく、いわゆる菩薩摩訶薩が識陰を正しく観察し認識するとは何か。菩薩摩訶薩は、識陰という陰は存在せず、識陰は無所有であると観ず。顛倒の陰が識陰であり、虚妄の陰が識陰である。なぜそう言うのか。持世よ、識陰は顛倒の心より出生し、識陰は虚妄の業縁に繋がれ、識陰は過去世の業より生じ、現在の業縁に属するからである。識陰は衆多の因縁和合によって出生するゆえに、識陰は虚妄無所有にして空である。
識陰の粗相の虚妄を証得することは無生忍であり、極細相の虚妄を証得することは無生法忍である。本来法は存在せず、法なき中において因縁力によって強いて識陰が建立される。識陰は虚妄・幻化にして無所有である。この理を容忍することが無生忍または無生法忍である。
原文:憶想分別より起こり、識より生ず。識するところ有るが故に、これを識と名づく。憶想分別の覚観より生じ、仮借して有り、識するところ有るが故に、数において識と名づく。もって諸物を識するが故に、もって心業を起こすが故に、もって思惟するが故に、衆縁生の相なるが故に、種種の思惟を起こすが故に、数において識陰と名づく。識するところ有るより、識像出でて、心業を示すが故に、思惟を摂するが故に、数において識陰と名づく。
釈:識陰は意根の憶想分別より生起し、阿頼耶識より生起する。識陰に識別の機能有るが故に識陰と名づく。識陰は意根の憶想分別の覚観より出生し、衆多の因縁を仮借して有り、また識別の機能作用有るゆえに五陰の数に堕ちて識陰と名づく。識陰が諸法を識別するが故に、心の業行を生起するが故に、識陰が思惟を起こすが故に、衆多の因縁和合の相有るが故に、種種の思惟を起こすが故に、五陰の数に堕ちて識陰と名づく。
原文:あるいは心と名づけ、あるいは意と名づけ、あるいは識と名づく。みな意業分別なるが故に、識陰に摂せらる。識相・識行・識性を示すが故に、数において識陰と名づく。かくのごとく、陰ならざるがこれ識陰なり。生ぜず、起こらず、作さず、ただ顛倒相応の縁にしたがい、虚妄識するが故に、数において識陰と名づく。
釈:識陰はあるいは心と名づけ、あるいは意と名づけ、あるいは識と名づく。いずれも意業分別に属し、識陰に摂せられる。識の相貌・識の運行・識の性質を示すゆえに、五陰の数に堕ちて識陰と名づく。かくのごとき本無き陰入の陰を識陰と名づく。識陰は実は出生せず、起用せず、何の機能作用も無いが、顛倒相応の業縁によって虚妄に諸法を識別するゆえに、五陰の数に堕ちて識陰と名づく。
原文:なぜならば、この識陰は衆因縁より生じ、自性無く、次第に相続して生じ、念念に生滅す。この識縁は陰相を生ぜず。なぜならば、この識陰の生相は得がたく、決定相もまた得がたきが故なり。生相得がたきが故に、決定相得がたきが故に、根本無所有なるが故に、自相無きが故に、牢堅なる相得がたきが故なり。
釈:なぜそう言うのか。識陰は衆多の因縁和合より出生するゆえに、識陰自体の自体性は無い。識陰は次第に相続して出生し、念念に生滅する。かかる識の縁は陰入の相貌を出生しない。なぜか。識陰の出生の相貌は不可得であり、識陰に出生無ければ出生の相貌も無く、識陰の決定有相も不可得である。識陰の出生相は不可得、決定有相は不可得、識陰は根本的に無所有であり、識陰の自体相も無所有、識陰の牢固相も無所有である。
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