青空の観行記録
11月19日 観行日記 座禅二百二十日目 呼吸を観る
昨夜の座禅で呼吸を観じた際、呼吸は比較的スムーズで、胸腹部が温かく快適であった。呼吸観察を続けるうちに、呼吸の熱流が絶えず身体に広がり、腹部から背中へと徐々に拡大し、最終的に後頭部に熱流が流れ込んだ。呼吸はますます円滑になり、気脈が通じ、眼前は清澄で妄念は少なく、意識は全身の覚受に集中していた。そこで観行の法義を観じようとした際、突然「色は無常、色は無我」という念が意識に浮かび、全身の筋肉が緊張し呼吸が急激に深まり、筋肉の収縮に伴って身体が捻じれるような状態が約二分間続いた後、次第に平静を取り戻した。
その後も呼吸観察を続け、全身の覚受を感知した。先ほどの全身の筋肉緊張後、経絡が更に開かれ、特に頭部の気脈がより通じるようになった。この状態でしばらく観行を続けると、頭部が明晰になり眼前は安寧となった。再び意識的に「色は無常、色は無我」を念じると、今回も身体に反応はあったが前回ほど強烈ではなく、次第に「色無我」の具体的法義を眼前で思索した。この思索過程では意識が集中し、妄念も煩悶も外乱もなく、安寧で深沈とした状態が続いた。やがてアラームが鳴り座を下りた。今朝の座禅では終始呼吸を観じ、法義を思索せず、全身の気脈が通暢で、終始愉悦の状態を享受していた。
評:「色は無常」という念が生じた際の全身の緊張と身体の捻じれは、意根が色無常に触発された現れである。従来、無常の法が意根に触れていなかった時は、このような震動現象は生じなかった。多くの意識で理解した法義も、意根に熏習されない限り身心に反応は現れず、意根が法義を直視した時に初めて震動が現れる。観行参究を続けることで意根が証得し、三昧や法眼浄が随現する。驚愕・動揺・恐慌・心乱れなどの深層心理活動は、全て意根の触発が表出したものである。
呼吸を観じる際は専心して呼吸の無常を体得すべきで、思索を用いず客観的に観察し、特に「色無常」という公案を引き出す必要はない。四念処の観行による我見断絶は、呼吸という接点から自然に色無常・身無常を体得し、さらに受念処・心念処・法念処において客観的に心無常・法無常を体得することで達成される。修行が熟せば自然に観察し自然に体得するもので、現行の観行と異なる法義を意識的に想起する必要はない。これが自然証果であり、意根による証果である。
観行は現量観察とも呼ばれ、現前する法をそのまま観じ、法の状態をありのままに観ることを指す。呼吸を観じるなら呼吸をありのままに現量で観じ、呼吸の情景を眼前に現前させる。意根が如何に弁識し、如何なる結論を得るかは意根の事柄である。色無常・身無常は意根自らに結論を出させ、自ら確認させるべきで、意識が代わりに注意喚起する必要はない。意識の役割は現象をありのまま意根に提示することのみであり、それ以外は全て意根の領域である。意根を急かしたり代行したりせず、各々の問題は各々が解決する。これが現量実証であり、情思意解や推理推測を伴わない。
回向文:当ネットワークプラットフォームにおける全ての弘法と共修の功徳を、法界の衆生に回向し、世界の民衆に回向します。世界の平和と戦争の終熄を祈願し、戦火の発生なく武器が永く収まりますように。全ての災難が消退しますように。各国国民が団結協力し慈心をもって相対しますように。風雨順調で国家安泰、人民平安となりますように。全ての衆生が因果を深く信じ、慈心をもって殺生を断ち、善縁を広く結び、善業を広く修めますように。仏法を信じ学び善根を増長し、苦を知り集を断ち、滅を慕い道を修めますように。悪趣の門を閉ざし涅槃への道を開きますように。仏教が永く興隆し正法が永住しますように。三界の火宅を極楽の蓮邦へと変じますように。
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