たとえば、意識心が四角い月を思い浮かべると、脳裏に四角い月が現れます。しかし、実際に空の丸い月を見ながら、目の前の月を四角く想像しようとしても、なかなか思い描けません。これは意識の定力が不足しており、眼前の境界に乱され、はっきりとした非量の想像・構想が困難になるためです。
目を開いている時、意識が認識するのは五塵上の法塵です。目を閉じている時、意識が想像するのは独影境です。目を開けて五塵上の丸い月を見ると、五倶意識が丸い月を了別し終えた後、さらに眼識の現量の働きが加わります。この「目で直接見た」という力は強く、意根はそれを確認し支持します。丸い月を見た後で改めて四角い月を想像しようとすると、非常に困難です。なぜなら丸い月の影像が意識心の中に残り続け、意識が二つの境界を同時に分別しようとするため、識心が分散され、生じる想像作用は非常に微弱となり、四角い月を想像しにくくなるのです。
独頭意識は最も干渉を受けやすく、四角い月を想像する力は十分ではありません。結局のところ、独頭意識は非量の了別であり、外部の縁が比較的少ないのです。丸い月は現量の了別であり、さらに眼識が同時に了別するため、丸い月を想像する勢力は強くなります。独影境を眼前に現出させようとするとやや困難になるため、心の中の四角い月は現れにくいのです。
もし意識の定力が非常に優れていれば、独頭意識が優勢に立つ可能性があり、心の中で四角い月を想像できるようになります。これは色塵上の月とは矛盾します。この時の丸い月は、おそらく四角い月と交互に現れ、一時は丸く、一時は四角くなるでしょう。定力が極めて優れた人であれば、二つの月が同時に現れることもあり得ますし、あるいは四角い月だけが現れることもあります。ご自身の定力を試しに鍛えてみて、どの意識が優勢に立つか観察してみてください。もしこのような定力を鍛え上げることができれば、将来あらゆる法を変えることも、一念のうちに三千大千世界を変現することも可能になります。人々の病気を治したり調整したりすることも、全てこの定力にかかっており、他人の心を変えることも、全てこの定力によるのです。
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