意識が覚醒している時、六塵の中の多くの法塵において了別が行われ、心識の種子の流注は比較的分散しています。しかしながら主導的な方向性は存在し、完全に一つの法に流注を集中させるには、修定によって定力を得るなどの訓練を経なければなりません。定力が深まるほど流注の集中力は増します。このため仏陀は定を修めた後に観行と参禅を教えられたのです。そうしてこそ効果が得られます。ただし一般の人が心識の種子を二つ以上の法塵に均等に分散させることは不可能で、常に主従関係が存在します。複数の法塵を同時に了別する必要がある場合、意識の注意力は異なる法塵の間を絶えず跳躍しなければなりません。例えば人や車両が非常に多い道路を歩く時、意識は絶えず色法塵・声法塵・触法塵を了別し、三つの法塵に対して同時に識種子を流注させますが、依然として主従関係が存在し、外界の変化に応じて主従関係が絶えず切り替わります。
上述の説明は一般の人々にとって正しいものであり、つまり定を得ていないか定が少なく、特殊な訓練を受けていない人々の状態です。もし訓練を経て定力が優れている人であれば、複数の境界を同時に了別する場合でも定力を保ち、全てを明瞭に了別できます。いわゆる「六路を眼観し八方を耳聴く」状態がこれに当たります。定力に優れた人は複数の事柄を同時に行っても問題なく、全てを適切に処理でき、精力を複数の事柄に高度に集中させられます。識心が訓練され、定と慧が非常に強靭である故に可能となるのです。
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