現証とは、意根が自ら証得することを指す。現証は明心見性の現証のみを指すものではない。多くの法が現証を必要とし、仏法であれ世俗法であれ、いずれも同様である。意根が証得することを親証と呼び、自ら証明するものであり、意識が伝達・転送したものではなく、意識が伝聞で得たものでもなく、意識が学び取ったものでもない。意根が証得していない法は、すべて仮の証である。現証がすべて意根に関わる以上、意根は一切の法を得るための鍵となる段階であり、その中には必ずさらなる秘密と法義が存在する。
我見を断つことと悟りを開くことは、いずれも意根が証得するものであり、意根による現証である。意識による証は仮の証である。たとえ明心した後でも、現証すべき法は数多く存在するが、いかなる法であれ、意根が認め確証すれば、それはすべて現証であり、世俗法も含まれる。あらゆる法の運行には意根が関与しており、もし現証に意根が関与せず、意根が現証していなければ、それは地に足がつかず、心が落ち着かない状態と呼ばれ、意根にはなお無明が存在し、智慧がなく、それは凡夫に他ならない。
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