衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
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日常開示

2018年02月13日    火曜日     第8 回の開示 合計40回の開示

足の痛みはどこに生じるのか? 足には痛みはあるのか?

痛みの感覚は勝義根において生じるものであり、浮塵根である足先では痛みを感じない。痛みを感じるのは身識と意識であり、身識と意識は勝義根において生じ、そこで感じる。内触塵が勝義根に現れるため、身識と意識は勝義根において生起し触塵を了別するのである。

身体の全ての部位の感覚は勝義根において生じる。たとえ足指が損傷しても、後頭部の勝義根で痛みを感じる。浮塵根である足自体に痛みはない。浮塵根は如来蔵のみが接触でき、意識は接触できないためである。如来蔵は触塵に対する覚知作用を持たず、浮塵根本体は塵であって覚受がなく、識のみが覚受を持ち、身識と意識が触覚を感知する。

如来蔵は浮塵根を通じて触塵と接触し、四大の微粒子を吸収する。身根の伝達神経を通じて後頭部の勝義根に伝達され、根塵が接触すると如来蔵は身識と意識を生起させる。根・塵・識の三者和合によって触が成立し、二つの識が痛みを感じるのである。足部の触塵は神経系を通じて勝義根に伝達され、身識と意識が生起して初めて了知される。浮塵根の段階では触塵を了知する識心は存在しない。

痛みを感じるか否かは身体の伝達神経系が正常かどうかにかかっている。異常があれば識心が生起せず痛覚を了別できないが、足の異常は現実に存在する。後頭部に問題がある者は足が切断されても感覚がないが、足の切断は事実である。どこが損傷しても麻酔薬を使用すれば痛みを感じず、麻酔が切れれば触塵が再び勝義根に伝達され、身識と意識が生起して再び痛みを感じる。

後頭部の勝義根に問題があると身体の痛みを認識できない。これは良きことではない。伝達神経が損傷し途絶えるためである。骨折しても痛みを知らなければ麻痺し、癌になっても痛みを感じなければ死を待つしかない。

如来蔵のみが根身を了別できる。意根は身識・意識に先立ち、如来蔵を縁として根身を了別する。痛覚触塵は後頭部の勝義根で生じ、勝義根と接触すると如来蔵が身識と意識を生起させる。これらが了別するのは勝義根内の痛覚触塵であって、足指の触塵を了別することはできない。では足指の触塵は誰が了別するのか。如来蔵が接触するが、如来蔵も分別せず、足の痛みを知覚しない。

夜中に眠っている時、六識が滅していても足が急に痛むと目が覚める。なぜ目覚めるのか。身根が痛みの触塵と接触し、問題が深刻であると意根が了別し、意識を覚醒させ状況を確認させるためである。すると如来蔵が意識と身識を生起させ、人は目覚める。足元の触塵は外相分であり、勝義根に伝達され内相分となる。外相分に触れるものと内相分に触れるものを区別すれば、各識の機能を明確に分けられる。如来蔵は浮塵根を縁として六塵外相分を了別し、勝義根において六塵内相分を顕現する。外相分は当然如来蔵が了知するものであり、彼には見分がある。

自分の足指から出血する現象はどこに現れるのか。眼識と意識が了別する勝義根内の内色塵である。流れる血液は色塵であり、如来蔵が眼根浮塵根を通じて色塵である血液に接触し、眼の伝達神経を通じて勝義根に伝達する。根塵が接触すると眼識と意識が生起し、出血現象を了別するのである。

——生如法師の開示
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