疼痛の感覚は、勝義根 (indriya) のところで生じるのであり、浮塵根の足のところでは疼痛を感じない。疼痛を感じるのは身識と意識であり、身識と意識は勝義根 (indriya) のところで生まれ、そこで感じるのである。なぜなら内触塵は勝義根 (indriya) の中に現れるのであり、身識と意識は勝義根 (indriya) の中で生まれて触塵を了別しなければならないからである。
身体のすべての部位の感覚は、すべて勝義根 (indriya) のところで生じる。たとえ足の指が壊れても、後脳の勝義根 (indriya) のところで疼痛を感じるのである。浮塵根の足には疼痛がない。浮塵根は如来蔵 (tathāgatagarbha) によってのみ接触され、意識は接触できないからである。如来蔵 (tathāgatagarbha) は触塵に対して覚知の働きがなく、浮塵根そのものは塵であって覚受がなく、識のみが覚受を有し、身識と意識によって触を覚するのである。
如来蔵 (tathāgatagarbha) は浮塵根を通じて触塵と接触し、四大の微粒子を吸収し、身根の伝導神経を通って後脳の勝義根 (indriya) に伝導される。根と塵が相触れると、如来蔵 (tathāgatagarbha) は身識と意識を生じさせ、根・塵・識の三者がさらに和合して触れると、二つの識は疼痛を感じることができる。足の部位の触塵は神経系を通じて勝義根 (indriya) に伝導され、身識と意識が生じて初めて了知されるのであり、浮塵根のところには触塵を了知する識心がないのである。
疼痛を感じられるかどうかは、身体の伝導神経系が正常かどうかによる。正常でなければ、識心が生じることができず、痛覚を了別できないが、足に問題があることは事実である。後脳に問題がある人は、足が折れても感覚がないが、足が折れたことは確かに事実である。どこが壊れても、麻酔薬を使えば疼痛を感じなくなり、麻酔が切れると、触塵が再び勝義根 (indriya) の中に伝導され、身識と意識が生じて、再び疼痛を感じることができるようになる。
後脳の勝義根 (indriya) に問題があると、身体の疼痛がわからなくなる。これは良いことではない。途中の伝導神経が壊れて中断してしまうからである。骨折しても痛みを知らなければ、麻痺することになり、癌にかかっても痛みを知らなければ、死を待つしかない。
如来蔵 (tathāgatagarbha) のみが根身を了別でき、意根は身識・意識の前にあって、如来蔵 (tathāgatagarbha) を縁して根身を了別することもできる。痛覚の触塵は後脳の勝義根 (indriya) のところで生じ、勝義根 (indriya) と接触すると、如来蔵 (tathāgatagarbha) は身識と意識を生じさせ、両者が了別するのは勝義根 (indriya) の中の痛覚の触塵であって、足の指のところの触塵を了別することはできない。では、足の指のところの触塵は誰が了別するのか。如来蔵 (tathāgatagarbha) が接触するのであるが、如来蔵 (tathāgatagarbha) も分別せず、足が痛いか痛くないかを知らない。
夜半に寝ているとき、六識はすべて滅しているが、足が突然痛むと、痛みで目が覚めることがある。なぜ目が覚めることができるのか。身根と痛みの触塵が相接触し、問題がやや深刻であることを意根が了別して、意識を目覚めさせ、どんな状況かを了別させるからである。すると如来蔵 (tathāgatagarbha) は意識と身識を生じさせ、人は目を覚ますのである。足のその位置の触塵は外相分であり、勝義根 (indriya) に伝導されると内相分となる。誰が外相分に触れ、誰が内相分に触れるのかをはっきり区別できれば、各々の識の機能をはっきり区別することができる。如来蔵 (tathāgatagarbha) は浮塵根を縁して六塵の外相分を了別し、次いで勝義根 (indriya) のところで六塵の内相分を顕示する。外相分はもちろん如来蔵 (tathāgatagarbha) が了知するのであり、神様には見分 (darśana-bhāga) があるのである。
自分の足の指から血が流れるのを見るとき、この出血の現象はどこに現れるのか。それは眼識と意識が了別した勝義根 (indriya) の中の内色塵である。流れる血液は色塵であり、如来蔵 (tathāgatagarbha) は眼根の浮塵根を通じて色塵である血液に接触し、眼の伝導神経を通って勝義根 (indriya) に伝導され、根と塵が相触れると眼識と意識が生じて、出血の現象を了別するのである。
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