一切の法の証得はすべて意根にあり、意識にあるのではありません。仏法であれ世俗の法であれ、意識で学んだものは作用せず、単なる知識に過ぎず、意根を染める作用しか果たしません。もし意識で学んだ知識が意根に染み渡らず、意根に証得させることができなければ、功徳の受用は得られません。では、解悟と証悟の違いはどこにあるのでしょうか。解悟は六識にあり、証悟は意根の証得と認可にあります。意識が意根を染め、意根を変え、意根の無明を断つことにおいて、一切の法は意根が主導します。そうして意根が一旦証得すれば、心の行いを転換することができ、私たちは成仏することができるのです。私たちが仏法において観行を行うとき、観行を深めれば深めるほど、最も根本的なものは意根にあると感じられます。意根は成仏の鍵であり、また生死輪廻の主宰者です。意根を降伏させ、染修に成功し、仏法を証得させれば、私たちは解脱を得て、仏道を成就するのです。
我見を断つことは必ず意根の我見を断つことです。意根は五陰を我と見なし、理論を学ぶことで意根を染め、意根に五陰の無我を参究させ、意根にこれらの法が私でも私のものでもないと認可させます。意根が一旦この理を証得すれば、三つの束縛の結びが断たれ、心は次第に清浄になり、心の行いは次第に転換し、一切の法を執取し掴むことを止めたとき、私たちは解脱を得るのです。
これが修行の鍵と秘密であり、小乗も大乗も同じです。大乗の面では、意根は常に如来蔵の功徳を自分のものと見なし、一切の法は私のものであり、私が所有するものであり、私が一切の法を決定し、私は一切の法の主宰者であると考えています。法界の実相を知らず、一切の法が如来蔵によって幻化されたものであることを知らず、自分自身が如来蔵によって現れた一つの幻化法であることも知りません。意根がこの理を知らないがゆえに、一切の法を実有として執取し続け、身口意の業行を造作し、そうして生死は絶えず、成仏もできないのです。
大乗法を学ぶとは、意識が理論上これらの法の無我性を明らかにし、如来蔵の実有性を知り、その後で意根を染め、意根に思量参究させ、最終的に如来蔵を証得させることです。法界の実相とは如来蔵であり、法界の一切の法は如来蔵によって変化し現れたものです。これら一切の機能作用は意根の機能作用ではなく、すべて如来蔵の機能作用です。意根がこの理を知り認可した後、実相を証得します。その後、修証の過程で次第に自我を執取せず、一切の法を執取しなくなれば、法執は次第に断尽されます。このように修行すれば、我執を断つだけでなく法執も断ち、法執が断たれれば、最後には究竟成仏するのです。
したがって、修行の鍵はすべて意根にあります。無明は意根にあり、無明を断除するのも意根の無明を断除することであり、煩悩を断除するのも意根の煩悩を断除することです。解脱を得るとは誰が解脱を得るのでしょうか。意根が解脱を得るのです。意根が三界の世間法を執取しなければ生死の束縛はなく、当然解脱を得ます。成仏とは誰が成仏するのでしょうか。六識は成仏できません。六識は生滅幻化して止まず、他世に至ることはできません。ではどうして成仏できるのでしょうか。意根は永遠に存在し滅せず、成仏の時までずっと続き、成仏後も永遠に滅しません。したがって成仏は意根が成就するものであり、意根が仏果と仏位を取るのです。しかし究極の真理の境地においては、意根は永遠に仏ではなく、何の果位も取れず、成仏も幻化法であって実法ではありません。如来蔵は成仏せず、究極の真理の境地では意根も成仏しません。成仏するその日になればわかることですが、成仏すべき仏はおらず、どの識も成仏しない、そうしてこそ究竟成仏できるのです。
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