現代人は世俗に執着しすぎているため、世の中のすべてが良く見え、好きになってしまう。そういう人々の心には決して厭世観が生じず、出家の心(出離心)を起こすのは非常に難しい。彼らは世の苦しみや暗い面が見えず、虚偽の享楽的な面だけを見ている。これは世俗への愛着が強いからである。人の心が世俗に入っているか離れているかは、その言葉からはっきりと表れるが、本人は自覚がなく、自己観察力がなく、内面で悟りを開いていない。
世俗への執着により、六根と六識が放逸になる。眼識の放逸とは、色を勝手に見ること。耳識の放逸とは、音を勝手に聞くこと。鼻識の放逸とは、香りを好み悪臭を嫌うこと。舌識の放逸とは、美味を貪ること。身識の放逸とは、快適さや安楽を求めること。意識の放逸とは、散乱・昏沈・掉挙(心の高ぶり)である。意根の放逸とは、あらゆる所に攀縁(執着)すること。阿羅漢(あらかん)たちの六根は決して放逸にならない。彼らは決して勝手に見たり、聞いたり、嗅いだり、味わったり、触れたりせず、意識も雑念を乱さない。
いつも飲食や美味を好む者は、舌識と意識がともに放逸である。いつも香りを嗅ぐことを好む者は、鼻識と意識がともに放逸である。いつも良い服を着たり良い寝床を好み、すべてを快適にしようとする者は、身識と意識がともに放逸である。いつも過去を回想し未来に攀縁する者は、意識心が放逸である。いつも何事にも執着する者は、意根が放逸である。
我々の第八識(阿頼耶識)に学ぼう。それは何も好まず、心は常に定(瞑想状態)にあり、貪る時も、怒る時も、痴(無知)の時もなく、我見(自我への執着)もなく、また主宰(コントロール)せず、縁に随って日を過ごし、また過ごすべき日もない。七識(末那識)がもしこのようであれば、成仏するには余裕がある。
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