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日常法話

2018年02月24日    土曜日     第3開示 合計100開示

意根の作意と前六識の出生

問:五根と五塵は終始相触れているのでしょうか。法爾如是(法爾に然る)であり、意根が作意するか否かにかかわらず相触れているのでしょうか。相触れていれば、第八識は無条件に五識を出生させるのでしょうか。意根は法塵のみに作意するのでしょうか、それとも六塵のすべてに作意するのでしょうか。

答:五根の浮塵根は時々刻々五塵と相触れており、如来蔵は時々刻々五根に依って五塵を伝導・変現して勝義根の中に送り込み、内五塵と法塵を出生させます。すると、内五塵と法塵は時々刻々後脳の勝義根の中に現れ、五塵と五勝義根もまた時々刻々相触れています。しかし、五識は常に出生しているわけではなく、多くの場合、五識が内五塵を了別しておらず、私たちは五塵の境界を知りません。つまり、五識の出生には条件があるのです。どのような条件でしょうか。眼識の出生には九つの条件があり、耳識の出生には八つの条件があり、鼻識の出生には七つの条件があり、舌識の出生には七つの条件があり、身識の出生には七つの条件があります。五識が出生すれば、五倶意識は必ず出生し、五識と意識が和合して五塵(法塵を含む)を了別します。

さて、六識はあるとき現れ、あるとき現れませんが、現れるための最も重要な前提条件は、間違いなく意根の作意です。意根が作意しなければ、意識は必ず現れることができず、当然、五識も現れることができません。意根の作意はきわめて重要なのです。意根は必ず法塵に作意します。そうすることで初めて意識が出生できるからです。しかし、意根は内五塵にも作意するのでしょうか。もし意根が内五塵に作意しなければ、如来蔵はそれに随順して協力し五識を出生させることはなく、そのようにして意識も出生しません。

ある人はこう問うでしょう:座禅して定を修しているとき、あるいは平時において、五塵六塵を了別するなど全く思っていないのに、なぜ六識が現れて六塵を了別し、避けようとしても避けられないのでしょうか。これは、意根の攀縁性があまりに強く、習性が改めがたく、意識による神様への牽制力も十分ではないためです。このとき、意識はなすすべがありません。意根を調伏してしまえば、その攀縁性が弱まり、初めて六識が定(じょう)に入り、了別したくない内容はもはや現れなくなり、専心致志して専注した思惟に達することができ、あるいは覚観(vitarka-vicāra)を滅することもできるのです。

これに基づいて推論すれば、六識の出生、すなわち六識が色声香味触法を了別するには、必ず意根の作意と思心所の運行があってこそ六識が出生するのであり、さもなければ六識および六識による了別活動はあり得ません。六識はすべて意根の指揮に従い、意根が了別する境界を決定します。意根が了別を決定せず、意根が知りたくないと思えば、必ず六識は了別せず、六識が意根の意旨と決定に服従しないということは、絶対にあり得ないことなのです。したがって、まとめて言えば、五根と五塵の相触れには意根の作意は必要ありませんが、五識六識による五塵六塵の了別には、必ず意根の作意があるのです。

——生如法師の開示
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