衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年02月25日    日曜日     第2開示 合計105開示

禅定において世の事の虚しさ無常を観ずる

問:時折、動きの中にある禅定が清く静かで澄み切っている時、心の感覚はまるで大きな真っ白なスクリーンのようであり、見聞覚知はスクリーンに映し出される映像のようなものです。真っ白なスクリーンも映像も共に意識の境界ではありますが、非常に静かな時には、その(意識の)顕現を感じ取れるようです。主に空白から念が生起する刹那において感じられ、その後も空白と識が共存する状態が続く間、この感覚は持続します。例えるなら、誰かが真っ白なスクリーンにサラサラと一筆一筆落書きを描いているかのようで、清らかで自在です。この感覚は主に耳根・眼根から生じる根識と意識に現れ、自分自身が虚無の意識の流れ、あるいは肉体そのものであると感じ、家族や親しい人々に対しても見知らぬもののように感じられ、存在する世界も見知らぬものとなり、自分がこの世に属していないような感覚が生じ、出家したいという想いが湧きます。心は静かではあるものの空虚感があり、出家したいという想いが生じます。この感覚はいったいどういうことなのでしょうか。

答:この感覚は禅定における観行の悟りです。禅定の中では、心は非常に清らかで微細であり、思惟観行は極めて深く細やかになります。それゆえ、法に対する認識は明晰かつ深遠となり、理解は核心を捉えることができます。したがって、いかなる法の証得も必ず、心に雑念がなく専心専意の状態において感知・証得されるものであり、それは意根自らが証明したものです。意根自らが世事の虚ろで無常なることを感知し証明した時、初めて真の出家心が生じ、虚ろな世事を追い求めることは二度となくなり、転じて無上の仏道を進んで求めるようになるのです。

——生如法師の開示
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