私たちが色体を見るとき、最初の一瞬に目を留める必要があります。この一瞬の間に、どれほどの刹那が過ぎ去っていることでしょう。一秒半秒の了別を経て、初めてそれがどんな色体であるかを知ることができます。仏陀はこう説かれました。指を弾くほどの間に八万一千の種子が生滅し、八万一千の刹那が過ぎ去ると。では、識種子の流注はどれほど速い速度なのでしょうか。私たちが生滅の現象を感じ取れないのも無理はありません。生滅があまりにも速すぎるために、生滅の現象が存在していることに気づけないのです。
これは、第一刹那、第二刹那において私たちは色塵が何であるかを知らず、第三刹那、第四刹那以降になって初めて色塵の一端を知るに至ることを示しています。人によっては第五刹那、あるいはそれ以上経てようやくわずかに認識できる場合もあります。視力に障害のある人なら、一分半分かかるかもしれません。具体的にどれほどの時間を要するかは一概には言えず、人の識別能力、つまり眼識と意識という二つの識の識別能力の如何によります。識別能力が弱い人ほど、認識に要する時間は長くなります。例えば、近視や老眼など視力に何らかの障害を持つ人は、色塵を識別するのに長い時間を要します。さらに智慧が劣り、見識が浅い人ほど、弁別に要する時間はさらに長くなります。
しかし、色を見ているその間も、第八識は決してその働きを止めたことはありません。第一刹那にそれが内色塵を生起させる以前から、外色塵の微粒子を絶えず伝導し続け、視神経を通じて勝義根に伝え、そして顕色を変現しています。顕色を変現した後は、さらにその顕色に基づいて形色、表色、無表色を変現し、同時に絶え間なく外色塵から四大の微粒子を摂取し続け、それに引き続き顕色、形色、表色、無表色を変現し続けています。もし第八識がどの刹那においてか停止し、四大の微粒子を勝義根に伝導せず、これらの内色塵を変現しなくなったならば、眼識は直ちに消失して色塵を見ることができなくなり、意識もまた直ちに消失して色塵を了別できなくなります。言い換えれば、眼識と意識の出生もなくなり、当然この二つの識は色塵を分別することができなくなります。
したがって第八識は一刹那たりともその運行を停止したことはなく、時々刻々、これらの色塵を伝導し、変現し続けています。これらの色塵が後頭部の勝義根に伝導された後、内色塵が顕現します。第八識は一瞬たりとも止まることなく、常に変現し続けています。仮に一刹那でも変現しなくなれば、色塵は顕現を停止し、眼識と意識は共に滅して分別することができなくなります。なぜなら色塵がなくなるからです。色塵がなければ識の存在もなく、識の生起は根と塵が触れ合うことを縁とし、この縁に基づいて第八識が眼識と意識を変生することで、初めて私たちは内色塵を見ることができるのです。
もし色塵がなくなれば、識の出生に重要な縁が欠け、第八識は六識を出生させることができず、当然六識の存在もなくなります。色塵が消失する時、元々色塵を了別していた眼識と意識は直ちにそれに続いて滅し、識が滅すれば色塵を了別することはできず、了別する対象もなくなります。ですから、第八識は無始劫以来の一刹那たりとも暇な時はなく、休むこともなく、止まることもありません。それ(第八識)はこのように労を厭わず、永遠に休むことなく働き続け、私たちのために無私の奉仕をしているのです。
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