六識の五つの遍行心所法は、まず作意を行い、作意とは注意力を境界に向けることである。意根である第七識がどの法を分別しようとするかによって、六識はその法に作意する。したがって、六識の作意は意根が主導して決定する。六識が作意した後、識の種子が生じ、六識が現起する。すると根・塵・識の三者が接触し、接触した後、最初に行われるのが領納である。領納とは何か。領納とは苦を感じたり楽を感じたりする感受を指すのではなく、最初の段階では情緒的な感受はまだなく、まず境界を領納する。六識が六塵の境界を領納する、つまりまず受け入れることである。受け入れた後、想心所が了別を始める。まず接触し、その後了別する。
例えば、誰かがあなたに物を渡す場合、まずその物に注意を向け、次に手で接触し、その後その物を受け取り、手に取ってから詳しく分別して観察する。観察した後、相を取り、その物に対して決定心が生じ、そこで覚受が生じる。その後の受心所と想心所については、どちらが先でどちらが後かは一概には言えず、これらは交互に現れる二つであり、五つの心所法の順序は乱れる。多くの人が同時に同一の事物を了別する場合、その心所法の順序はそれぞれ異なり、これは各人の慧力、定力、業力、煩悩習気すべてに関係している。
一般的な状況では、境界を領納した後に想が生じ、了別と相を取る機能体性を得た後に感受が生まれる。感受が不明瞭であれば、さらに触と想を続け、さらに了知を続ける。了知した後に抉択心が生じ、様々な感受が生まれる。触・想・思の三つに要する時間が長ければ長いほど、内心の感受は多くなり、心境の変化は大きくなる。これは絶え間なく想い、絶え間なく感受し、絶え間なく感受し、さらに絶え間なく想うことを示している。心の情緒は波立ち、内心も絶えず境界相を取り続け、五つの心所法は繰り返し絶え間なく運行し、五つの心所法の前後順序は往々にして乱れる。例えば思心所の運行は、想心所が境界を了別するのが不明瞭な場合、思も明らかでなく、思心所の決定的な性質は生起せず、抉択力がない。この時は振り返って再び触心所と想心所を運行させ、了別が明らかになった後に初めて思心所に抉択力が生まれ、最終的な抉択を行うことができる。そうして五つの遍行心所法がこの境界における運行は終了する。
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