分別亦非意は『六祖壇経』において六祖が説いた教えである。六祖の言う「分別亦非意」の分別を、一般の人々は妄心の七識の分別性と理解しがちであるが、実はこの言葉の真意は第八識の本心の分別性を指している。この法は深遠であり、六祖の教えは全て真如自性の第八識に基づいている。彼が説く一切の法は真如自性の第八識を中心として展開され、虚妄の法には依拠していない。
「分別亦非意」の真意とは、第八識である真如自性の分別性を指す。第八識は万法を分別する能力を有するが、自ら分別しようとする心はなく、意図的に分別する心の働きもない。能動的に何かを分別しようとせず、自然に任せて一切の法を分別する。無心のまま一切の法を分別しながらも、何ら執着を生じず、事に心を留めず、心に事を留めず、縁に随って自在であり、一切の法相を了えながらも了えたという意識なく、全ての事業を成しながらも作ったという意識がない。このような心は虚空の如く、自在の上にも自在であり、悠々自適である。
もし七識心も第八識の如くあるならば、世の中に何の苦しみがあろうか、何の負担があろうか、何の世間があろうか。心は空々として、世間を行くこと虚空を行くが如く、この大いなる自在こそ仏心の自在であり、諸仏の境界である。では第八識は我々が学び倣うに値するものではないだろうか。大いに値する。無量の生命を費やすことになろうとも、第八識に帰依すべきである。ましてや第八識に帰順することは、正に無量劫以来の生死の苦恼から解脱し、常に執着なき甘露を飲み、自在逍遥して究竟の大楽を得る所以なのである。
第八識の分別性を例えれば、種子を分別する如し。どの種子の縁が熟し、どの種子の縁が未熟か、どの果報を実現すべきか否かを、第八識はことごとく了別する。このような分別性を具えている。しかしこの分別性は法爾自然の分別であり、自らの運行法則に従う。意図的に分別造作するものではなく、故にこの分別は無意であり、自らの心意も心行もない。このようにして一切の法を運営する。一切の法に対する分別性はあるかといえば、確かに分別性はあるが、同様に心行なく、無心無意のまま任運に転じる。この分別性は明心せざる者には相応し難く、体得しがたく、前七識の分別性と混同される恐れがある。しかし第八識には前七識のような分別性や心行がなく、用心することもない。故に第八識の分別は無意なのである。
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