衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法師ウェブサイトロゴ

日常法話

2018年03月30日    金曜日     第3開示 合計279開示

仏教を学ぶに何故観心が必要なのですか

心を観ずることを知らず、心を観ずることができず、心を観じることのできない者は、自らの心を覚ることができず、自らの心を覚ることができなければ、自らの心を変えることもできない。多くの仏教を学ぶ者は、心のままに漂流させ、自らの貪り・瞋り・痴の煩悩に従い、自らの我執の性質に順じ、自らに悪心や不善の心所があることを考えたこともなく、したがって自らを変えようと考えたこともない。そのため、時を移さず場所を選ばず自らに逆らい、自らの煩悩習気に逆らい、自らの愚痴と無明に逆らうこともなく、自らの心と我執の性質に従うことが生死に従うことであり、三悪道に従うことであり、苦の業に従うことだと知らないのである。

革命とは、いったい誰の命を革めるのか。それは自らの命を革め、意根の命を革めることである。そうしてこそ解脱を得て大自在を得ることができる。しかし多くの者は毎日他人の命を革めようとし、他人を変えようと努力して自らの我執の性質に順じ、自らの私欲と貪りを満たそうとする。こうした者こそ無明の深い者である。心を観ずることのできない者は、すべて煩悩習気の深刻な者、我執の強い者、自惚れと傲慢な者である。こうした者は意識心すら覚っておらず、心の奥底にある意根がどうして覚って解脱と自在を得ることができようか。

大多数の者は仏法に出会わなかったとき、心は迷って覚めず、仏法に出会っても相変わらず迷って覚めない。外境を掴み取って我がものとし、我がために用い、我見と我慢を増長し、卑劣な手段を厭わず個人的な私欲私利を達成しながら、平然と自らに修行があると思い込み、手段があり、聡明で才能があると考える。決して自らを振り返ることができず、法を学んだ後は仏法の知識を偽装として用い、自我を壮大にし、自我を増長させる。実に愚痴でありながら自覚がないのである。

——生如法師の開示
前へ前へ

色法はすべて四大種より成る

次へ 次へ

解脱の功徳受用は何処より来るか

ページトップへ戻る