衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年04月04日    水曜日     第2開示 合計300開示

六識は意根の配下と参謀

各司令官(意根)が情報を得た場合、彼自身が思考・分析・検討を行う必要はないのでしょうか? 研究・加工する必要はないのでしょうか? 戦略・戦術上から配置・手配を行う必要はないのでしょうか? たとえ参謀(六識)の意見・提案に完全に同意したとしても、彼自身の思考・研究・分析・判断を経て、自らの心の活動を持った上で初めて同意し決断するのではないでしょうか? 参謀である部下と司令官は、それぞれの心の活動、それぞれの智慧と謀略、それぞれの手段、それぞれの経験などを持つべきではないでしょうか? 意根と六識も同様です。

外部の者は、部下である参謀の調査・研究の役割しか見ることができず、司令官が決断前に情報に対して行う思考・加工の過程を見ることができません。そこで、これらの決断や全ての戦闘指揮は部下である参謀の功績であると言うのです。こう言うのは果たして情理に適っているのでしょうか?

我々の99%、いやそれ以上の人々は、部下の仕事の成果しか見ることができず、司令官の苦労を全く見ることができません。なぜなら、司令官に接する機会がなく、司令官の仕事や決断の過程を見ることができないため、全ての仕事は部下である参謀が完成させたものであり、司令官はただ同意し、うなずき、決断しただけだと考えてしまうのです。

仏法を学ぶ者たちは往々にして、自分が知らず証得していない法に対して否定を加えます。見えないものは存在しないと言い、ただ自分自身を信じ、自らの智慧の不足を信じようとしません。これは普遍的な現象であり、法を謗る(誹謗する)ことはこのようにして生じるのです。

六識論者(前六識だけを認める立場)はこの娑婆世界に溢れています。なぜなら、第八識を証得できず、意根を証得できず、この二つの能変識(能変識:阿頼耶識と末那識)の機能と作用を観察できないため、否定を加えるのです。

また一部の人々は、第八識の存在を信じてはいる、あるいはわずかに第八識を証得してはいるものの、意根を証得できず、意根の運行を現前に観察できないため、意根の様々な機能と作用を否定し、七識論者(第七識である末那識のみを認めない立場)となってしまい、これもまた非常に問題があるのです。

——生如法師の開示
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