『金剛経』における「応無所住而生其心」の心とは、自性清浄心・真実の如来蔵を指し、意識心が無住の状態で一切の法に対応することを指すのではありません。意識心を無住に修めることが即ち悟りであるという状況は、明心証悟に属しません。意識心の住と無住を明らかにすることは、如来蔵の般若智慧とは無関係です。意識心が滅した時のみ無住となり、存在する限り必ず法塵に住しています。そうでなければ法塵を知覚できず、自身の無住状態も、入定の有無も認識できません。もし入定を知り無住を認識するなら、その時点で「無住」という法塵に住していることになります。
悟りとは自性清浄心を体得することです。六祖大師が五祖から金剛経を聞いた際に悟ったのも、元来無住であるこの自性清浄心でした。「無所住而生其心」とは、ある瞬間突然心が無住になり清浄化した状態を指すのではなく、その時の心が真実の自性如来蔵そのものである悟りの境地を意味します。もしその後再び心が清浄でなくなれば、悟りの境地は消失するのでしょうか。もし悟りが意識心の無住を体得することであるなら、六祖は元来無住の自性清浄心を悟ったことにならず、真の悟りを得たとは言えません。
しかし六祖が悟ったのは決して意識心の無住ではなく、元来より無住である真実の自性第八識でした。この心は人為的に無住にする必要がなく、本来いかなる法にも住していません。故に「無所住而生其心」の心とは真実の如来蔵そのものです。如来蔵は後天的に修得された無住ではなく、元来より無住のまま存在します。前七識は存在する限り必ず相応の塵相に住し、塵相を知覚します。もし七識が塵に住まなければ塵相を認識できず、認識した時点で既に住しているのです。例えば両手が触れ合う時、住していなければ触覚は生じず、触覚があれば即ち住しています。無住であるなら身識も意識も接触を感知し得ません。根・塵・識の三者和合によって触覚が生じ、識は六塵を認識します。識は必ず塵に触れて初めて塵を知るのです。この知覚とは分別作用であり、塵に住した後の結果なのです。
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