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日常法話

2018年04月06日    金曜日     第3開示 合計310開示

応無所住而生其心の真意

『金剛経』における「応無所住而生其心」の心とは、自性清浄心、真実心である如来蔵を指し、意識心が無住の状態で一切の法に対応することを指すのではない。意識心を無住に修めることが即ち悟りであるという状況は、明心証悟には属さない。意識心の住と無住を明らかにすることは、如来蔵の般若智慧とは無関係である。意識心は滅したときのみ無住となる。意識が存在する限り、必ず法塵に住しており、そうでなければ法塵を知ることができず、自らが無住であることも、入定しているか否かも知ることができない。もし入定を知り、無住を知るならば、それは無住という法塵に住しているのである。

悟りとは自性清浄心を悟ることであり、六祖大師が五祖から金剛経の講義を聴いた際に悟ったのも、この本来から無住である自性清浄心であった。「応無所住而生其心」とは、ある瞬間に突然心が無住となり、清浄になった状態を指すのではなく、その時の心が即ち真実心・自性如来蔵であるということであり、これは悟りの境地に属する。では、しばらくして心が清浄でなくなり、再び住するようになったら、悟りの境地は消失してしまうのではないか。もし悟りが意識心の無住を悟ることを指すならば、六祖は本来無住の自性清浄心を悟ったことにならず、悟りを得たとは言えない。

しかし六祖が悟ったのは決して意識心の無住ではなく、本来から無所住である真実心・自性第八識であった。この心は無住にさせる必要はなく、本来から無住であり、いかなる法にも住したことがない。したがって「応無所住而生其心」の心とは、即ち真実心如来蔵である。如来蔵は本来から無住であり、後から修して得られたものではなく、後に無住に変化したものでもない。これに対し、前七識は存在する限り有住であり、対応する塵相を持ち、塵相に住している。もし七識が塵に住さなければ、塵相を知ることはない。知った以上は、住しているのである。例えば両手が触れ合う場合、住していなければ触はなく、触れたならば住しているのである。もし無住であると言うならば、身識と意識も手が触れ合ったことを知ることはない。根・塵・識の三者が和合して触が生じ、識は六塵を知るのであり、識は必ず塵に触れて初めて塵を知ることができる。この「知る」ということが分別であり、了別であり、それは塵に住した後の結果である。

——生如法師の開示
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七識の心は如来蔵に倣うべく、六塵の境界に執着せず

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