衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年04月13日    金曜日     第3開示 合計346開示

修行は足元を固める

修行は足元から着実に進めるべきであり、スローガンを叫ぶような方法や、終日スローガンを口にするべきではありません。それらのスローガンは全て十地の菩薩の修証に関わるもので、十地の菩薩に至っていない者がどれほどスローガンを叫んでも、依然として足元すら一歩も動かせません。例えば夢幻観は、十回向位の菩薩が証得する境地です。私たちがどれほど「一切の法は夢の如し」と叫び、一切が夢の如くであることを理解しようとも、実際に一切法が夢の如しという観を真に証得した時には、既に十回向位の菩薩となり、初地に入ろうとしているのです。夢幻観の理解について言えば、十回向位に修めていない限り、どれほど理解を深めても結局は理解の域を出ず、証得したことにはなりません。このような理解は慧とも呼ばれますが、もし皆がこのような智慧を追求し満足するならば、成仏はあまりにも容易になってしまいます。成仏前の観行理論を全て取り出し、順を追って学習理解し、様々な理解の智慧を生じさせるだけで、私たちは十地・等覚・仏の智慧を得たと言えるのでしょうか。

食を語っても腹は膨れません。私は空っぽのスローガンを叫ぶような修行方法を忌み嫌います。言葉は立派ですが、実際の自心は卑小です。なぜ自心の実際の状況に応じて、相応の修行方法を取って実践しないのでしょうか。短期間あるいは長期間でも達成できないスローガンを叫ぶべきではありません。仏法は実際の観行と自心の対治・調伏のためのものであり、言葉遊びのためではありません。一時の言葉の勝負にこだわり、実際の真の修行を軽視すべきではありません。

例えば如来蔵の無住のように、私たちの七識心も如来蔵のように一切の法に住着しないようにするというのは、実に高遠すぎます。八地の菩薩でようやく一部分に相応し、完全には相応できません。初地以上の菩薩でも一部分に相応するだけで、やはり完全には相応できません。地前の菩薩や悟り前の菩薩は理解できるだけであり、心を法に住着させないようにすることは非常に難しいのです。言うことと行うことは別物で、実際にその境地に修行が至っていなければ、言うことと行うことは統一できず一致しません。証得していないから実行できず、理解した後には語れても、証得して初めて実行でき、言うことと行うことが一致するのです。ですから、もしある人々が言うことと行うことが一致しないのを見かけたら、彼らが実際に証得しておらず、この法を悟った者ではないと知るべきです。

また例えば、明心後の最も浅い幻観についてですが、深い禅定がなければ、ほんのわずかな幻化の観感すら得られません。禅定から離れればこの感覚は現れず、禅定が浅くても駄目です。ましてや禅定が全くなければなおさらです。多くの人々が終日「一切の法は夢の如く幻の如し」と口にしていますが、実際には幻の如くあることなど全くできず、理解した幻観は結局真の作用を発揮できません。事が起きた時、内心の覚受は全く幻の如くならず、まして夢の如くなどありえません。私は皆様に着実に修行するようお勧めします。口頭禅を弄してはいけません。それらの口頭禅は、自らの修行の座右の銘とするには確かに素晴らしく、追求する目標とするにも確かに良いものです。しかし一方で、一歩一歩着実に修行を始め、真面目に福徳と禅定を修め、真面目に三十七道品を完成させるべきです。三十七道品を修めずに飛び越えて大乗の様々な観行を完成させようなどというのは、天方夜譚です。

——生如法師の開示
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