私たちの修行は、着実に足元から始めるべきであり、スローガンを叫ぶような方法で、終日スローガンを口にするべきではありません。それらのスローガンはすべて十地菩薩の修証に関わるものであり、十地菩薩に至っていないならば、どれほどスローガンを叫んでも、依然として足元から一歩も動くことはできません。例えば、夢観(むかん)は十回向位(じゅうえこうい)の菩薩が証得するものであり、私たちが今どれほど「一切法は夢の如し」と叫び、いかに一切法が夢の如くであるかを理解しても、真に一切法が夢の如くであることを証得する時には、すでに十回向位の菩薩であり、初地(しょじ)に入ろうとしているのです。夢観に対する理解について、十回向位に至っていないならば、どれほど理解が深くとも、結局は理解に過ぎず、証得ではありません。このような理解は慧(え)とも呼ばれますが、もし皆がこのような智慧を追求し満足するならば、成仏はあまりにも容易いことになります。成仏以前の観行の理論をすべて取り出し、順番に学習理解し、様々な理解の智慧を生じさせれば、それで私たちは十地・等覚(とうかく)や仏の智慧を持っているということになるのでしょうか?
食べ物の話をしても腹は膨れない。私は空っぽのスローガンを叫ぶような修行方法を忌み嫌います。言葉は立派でも、実際の自心は非常に劣っているのです。自心の実際の状況に応じて、相応の修行方法を取って修行し、短期間あるいは長期間でも達成できないスローガンを叫ばないようにすべきです。仏法は実際の観行と自心の対治調伏(たいじちょうぶく)に用いるものであり、言葉遊びに使うものではありません。一時の言葉にふけり、実際の真の修行を軽んじてはなりません。
例えば、如来蔵(にょらいぞう)の無住(むじゅう)のように、私たちの七識心(しちしきしん)も如来蔵のように一切法に住することなくあれ、というのはあまりにも高遠です。八地菩薩でようやく一部分に相応し、完全には相応できず、初地以上の菩薩でようやくいくらか相応できても、なお完全には相応できません。地前(じぜん)の菩薩や悟前(ごぜん)の菩薩は理解できるだけで、心を法に住させないようにすることは非常に難しいのです。言うことと行うことは別物で、実際にその境地に修行が至っていなければ、言うことと行うことは統一できず、一致しません。証得していないからこそ実行できず、理解した後は言えるが、証得して初めて実行でき、言うことと行うことが一致するのです。ですから、もし私たちが言うことと行うことが一致しない人に出会ったならば、彼らが実際に証得しておらず、この法を証悟した者ではないと知るべきです。
また例えば、明心(みょうしん)後の最も浅い如幻観(にょげんかん)は、深い禅定(ぜんじょう)がなければ、ほんのわずかな幻化観感すら持つことができず、禅定を離れればこの感覚は現れず、禅定が浅くても無理であり、ましてや禅定がなければなおさらです。多くの人が終日「一切法は夢の如く幻の如し」と口にしていますが、実際には如幻を全く行うことができず、理解した如幻は結局真の作用を起こせず、事が起きた時には内心の覚受(かくじゅ)は全く如幻ではなく、ましてや夢の如くでもありません。私は皆さんに着実に修行し、口先だけの禅を弄(ろう)することのないようお勧めします。それらの口先の禅は、自ら修行する座右の銘としてはもちろん素晴らしく、追求する目標としてはもちろん良いですが、なお一歩一歩の修行を始め、真面目に福徳(ふくとく)と禅定を修め、真面目に三十七道品(さんじゅうしちどうほん)を完成させるべきであり、三十七道品を修めずに大乗の様々な観行を完成させられると思うのは、天方夜譚(てんぽうやたん)です。
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