凡夫の衆生は無始劫より愚痴無明のため、禅定と智慧がなく、五陰及び一切法に対する観察と認知は表面的な現象に粗略に留まり、実質的かつ究竟的な意味での観察ができず、色身を実有の法と見做し、識心の作用をも実有の法と見做し、その苦・空・無常・無我を知らない。これが五陰に対する誤った認知である。白骨観を修習することにより、定力が次第に深まり、観察力が徐々に強く微細となり、色身の生滅変異を明晰に観察できるようになると、空の真実が顕現し、色身全体が白骨の相を呈するに至り、最終的に白骨もまた空となる。これにより身見と我見が断除される。
観行の全過程は三昧の状態にあり、色身の骨肉における骨相と空相は自然に現れる現量境界であって、意識が虚構的に推論する非量境界ではない。一切の三昧は意根より発起され、全て意根の現量智慧認知境界であり、意識の比量・非量の成分は毫も含まれない。意識は三昧中において受動的な知のみを有し、意根に随って動きつつ知る。三昧以前には意識は能動的な思惟観察作用を有し、意根を導いて道に乗せた後、禅定が次第に深まり、最初の定境三昧が現前する。意識の作用力は漸次弱まり、意根の過程思量作用は次第に増大する。意根が如実に法を見るに至れば智慧が顕現し、真の定慧等持三昧が現前し、この時に証果を得る。
禅定がなければ、意根は色身と五陰に対し専注を極めることができず、如実に思量し法を見ることができず、色身五陰の真実の相貌を知ることができないため、智慧は顕現しない。白骨観は禅定を生じさせ、禅定より智慧を引き出し、最終的に我見を断じて証果する。最初は不可能に見えた白骨が最終的に心中に現れるのは定果色であり、定果色の白骨を見れば色身が我ならざることを知り、定慧等持の三昧が現前して法眼浄く証果する。
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