これは衆生の悪業が感召したものです。過去世に造作した悪業はそれぞれの如来蔵 (tathāgatagarbha) の中に存在しており、縁が熟した時、如来蔵は悪業の種子を出力し、衆生の果報が現前します。生存環境は依報であり、衆生の五陰 (pañca-skandha) に依存して存在するものであり、五陰の身は正報であり、真に苦を受ける主体です。これらの果報はすべて如来蔵が変現したものであり、これらの生活環境の不満足の源は如来蔵であり、すべて神様が送り出した四大と六大の種子であり、苦報を受ける五陰と劣悪な環境を形成し、私たちの世界に冷熱などさまざまな苦難を変現させたのです。
もし私たちが如来蔵に当たりに行くなら、如来蔵は、意根に当たりに行け、私はただ随順しているだけで、主宰をしているのではなく、自ら進んでこのすべての苦報を変造しようとしたのではない、と言うでしょう。もし意根に尋ねるなら、愚痴な意根はそれほどのことは語れず、急いで意識に何がどういうことなのかを分析させなければなりません。意識は仏法の中の因果などの理論を用いて思考・分析・認証し、それから意根に報告しなければなりません。意根がそれを知れば、身口意行を慎んで行動させ、業を再び造らぬようにするでしょう。
私たちは今後、どんなに思い通りにならない事に遭遇しても、如来蔵に当たりに行かなければなりません。源は神様のところにあり、すべて神様が仕出かしたことなのです。しかし神様を冤罪にしてはなりません。蔓をたどって瓜に至るように、最後には意根自身のところに帰着しなければなりません。意識自身にもそれなりの責任があり、この二者が主犯であり、主な教育・改造の対象なのです。私たちの修行とは、まさに意識と意根を教育・改造することであり、改造がうまくいけば、世界は美しく円満で清静 (praśama) なものになるのです。
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