小乗の修行は依然として仏の説かれた阿含経、特に雑阿含経を基準とすべきであり、他の人々の論書には多かれ少なかれ不正確な点があり、その細部が仏説と一致していません。四果の阿羅漢が説いた論書でさえも仏説との間に食い違いがあり、全てをそのまま信受すべきではありません。
小乗の諸論書における誤謬と論争は、古代唯識の論争よりも多いのです。これほど単純な法義でさえも論争が絶えず、意見が一致しないのは、仏法の修行が容易でないことを示しています。小乗の解脱道における修行の次元が比較的低いため、書物を著し論を立てる者が多く、内容も雑然としており、各自が異なる用語を用いる事例も少なくありません。これらは全て娑婆世界の衆生の業が招いたものであり、他の世界にはこのような状況は存在しません。
経典には、初果を得た後に初禅定を修め出し、次第に貪瞋痴などの煩悩を断じて初めて慧解脱の阿羅漢となると説かれています。しかし小乗の論書には、慧解脱の阿羅漢は初禅を必要とせず、未到地定も必要ないと説いています。少しも禅定を修めることなく煩悩を断じて四果を得るなどというのは、全くの空想物語です。
我々が今生において精進修行せず、基礎を固め、何らかの成就を得なければ、後世の仏法はさらに混乱を極め、正邪の区別が全くつかなくなり、魔王の仕掛けた罠から脱出できなくなるでしょう。魔王の手段は極めて多く、防ぎきれるものではありません。よって我々は三宝に帰依する誓願を発し、仏力の加護に依って解脱の正路を歩むべきです。この世は至る所に魔障が存在し、福徳が少しでも不足すればたちまち障礙され、自ら気付かず、たとえ気付いても解脱する力がありません。福徳を多く修め、定力を増強し、業障を降伏させることが最も重要です。時に至って業障が現前した際、自ら突破する力を備えるためであります。
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