衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年05月28日    月曜日     第6 回の開示 合計555回の開示

凡夫の法と聖人の法

凡夫の法を具足しているが、凡夫はこれを知らない。凡夫もし知るならば、即ち聖人となる。聖人の法を具足しているが、聖人はこれを知らない。聖人もし知るならば、即ち凡夫となる。

如来蔵は本来一切の法を具足している。これらの法には有為法と無為法、凡夫の法と聖人の法が含まれる。有為法とは七識が造作する三界世間の法であり、如来蔵が生じた五陰十八界の法である。無為法とは如来蔵が五陰身の中で運作する際に現れる清浄性と如如性を指し、また如来蔵の心法を表す。

如来蔵は五陰十八界の世間一切法を具足しているが、凡夫はこれを知らない。七識に無明があり自心を覆っているため、五陰十八界の法を実有の法と見做し、これら一切の法が如来蔵の幻化によるものだと気付かない。凡夫衆生が大乗法を修学し、一旦如来蔵を証悟した時、五陰十八界の一切世間法が如来蔵に属する法であり、如来蔵が本来一切法の種子を具足していることを知る。因縁が具足すれば、種子に基づいて一切法を出生し、五陰の自我は幻化されたものであるから無我であると悟る。この時、人は凡夫から聖賢へと転じる。六祖が五祖から金剛経を聞いた際、自性が本来一切法を具足するという理を明らかにし、五つの「何ぞ自性」を悟って聖人となった。

如来蔵は出世間法であり、無明煩悩を持たない。故に聖性を具足し、聖人の法を具足し、無為法を具足する。無始劫より自心は永遠に清浄無為であり、一片の無明もなく、一片の煩悩もなく、一片の我性もない。一切法を出生しながら一切法に執着せず、一切法の運作の中で常に自體の清浄性・如如性・無煩悩性・無無明性を顕現し、永遠に万境に随って転ずることがない。しかし如来蔵の自體が本来具える聖性について、如来蔵は自ら知ることもなく、自らが凡であるか聖であるか、有為であるか無為であるかを了知することもない。

もし如来蔵が清浄無為の聖人法を具足し、その真実如如の性を了知できるならば、この了知する心は有為性を具えた妄心である。妄心は即ち世間法であり、世間法は凡である。出世間の如来蔵は聖である。もし人が「如来蔵は自ら清浄無為の性を具足していることを知っている」と言うならば、如来蔵は直ちに世間の生滅する妄心となり、凡夫となってしまう。もはや出世間の如来蔵心體ではない。しかし如来蔵は永遠にこのような了知性を持たず、永遠にいわゆる出世間の聖人である。故に如来蔵は聖人法を具足しながら自ら知ることがない。

——生如法師の開示
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