衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2021年04月15日    木曜日     第1 回の開示 合計3305回の開示

五蘊と六識はすべて意根の道具です

問:もし法がすべて意根によって証されるなら、なぜ意識を出生させる必要があるのですか?

答:意識と五識、五陰はすべて意根が使用しなければならない工具です。これらの工具がなければ、意根自体は無力であり、六識五陰を使って自らのために奉仕させ、六識五陰を通じて世間で一切の法を貪り取る必要があります。六識五陰がなければ意根は手も足も出ません。したがって意根は多くの法を知ることができますが、これらの法を処理するには意識が必要です。例えば周囲に鬼神が現れた場合、意根は非常に恐ろしく感じ、自身が脅かされると感じますが、自ら鬼神に対処することも単独で避けることもできません。そこで身の毛もよだつと同時に、意識が警戒してこの事態を認識します。意識は不思議に思います:いったいどうしたことか、なぜ恐怖を感じるのだろう?周囲に何か不気味なことがあるのではないか?意識が鋭敏であれば考えを巡らせ、可能な限り周囲に鬼神がいることを知り、そうして避ける方法を考えます。これにより意根は目的を達成するのです。

したがって意根に知性はありますが、事柄を処理するには意識五陰が必要です。意根が法を証した後、身口意の清浄行は意識五陰によって実践されなければなりません。そうして六識の清浄な身口意行が、意根の清浄さを体現します。しかし相当に高い修行段階に至り、四禅八定を修得して無量の神通力を具備すれば、意根が六識に代わることができるようになります。この段階では六識を出生させる必要がなく、すべての事柄を意根自らが処理でき、非常に便利で手間がかかりません。よって意識の機能と地位は意根とは比べものにならず、永遠に主従関係が続きます。主人は使用人に雑事を処理させますが、主人の能力が大きくなり、すべてが現代的なプログラムになれば、使用人なしで自らが巧みに処理できるようになるのです。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

父子和合経講義録(二〇八)

次の記事 次の記事

観行において淫欲を断ずる方法

ページのトップへ戻る