問:もし法がすべて意根によって証得されるのであれば、なぜ意識を出生させる必要があるのですか?
答:意識と五識、そして五蘊は、すべて意根が必ず使用しなければならない手段です。これらの手段がなければ、意根自体は無力であり、六識と五蘊を用いて自らのために奉仕させ、六識と五蘊を通じて世間において一切の法を貪り取る必要があります。六識と五蘊がなければ、意根は為す術がありません。故に意根は多くの法を知ることができますが、必ず意識がこれらの法を処理しなければなりません。例えば周囲に鬼神が現れた場合、意根は非常に恐ろしく感じ、自らが脅かされると感じますが、自ら鬼神に対処することも、単独で避けることもできません。そこで身の毛もよだつと同時に、警戒心を持った意識がこの事を知ります。意識は不思議に思います:いったいどうしたことか、なぜ恐怖を感じるのか?周囲に何か不気味なことがあるのではないか?意識が明晰な時、よく考えて周囲に鬼神がいることを可能な限り認識し、それから避ける方法を考えます。こうして意根は目的を達成するのです。
故に意根は知を有していても、事柄を処理するには意識と五蘊を用いなければなりません。意根が法を証得した後、身口意の清浄な行いは意識と五蘊によって実践されなければならず、六識の清浄な身口意行が意根の清浄さを体現します。しかし相当に高い修行段階に至り、四禅八定が修められ、無量の神通力が具わると、意根が六識に代わることができるようになります。この時はもはや六識を出生させる必要がなく、一切の事柄を意根自らが処理し、非常に便利で手間がかかりません。故に意識の機能と地位は意根とは比べものにならず、永遠に主従関係にあります。主人は使用人に雑事を処理させますが、主人の能力が大きくなり、すべてが現代的なプログラムとなれば、使用人を用いずとも自らがすべてを巧みに処理できるようになるのです。
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