我慢と我慢の習気
この無上菩提は世の中の全ての我慢を消し去ることができる。凡夫衆生は皆深く重い我慢を有している。我慢とは何か。まず衆生は「我」が存在すると考え、五陰を我と認める:色身が我、感受が我、見聞覚知が我、想陰が我、身口意行が我、六識の識別性と了別性が我。凡夫はこれを以て我とし、強く我に執着する。我見・我執心に依って我慢心が生じ、自らの五陰十八界が他衆生の五陰十八界より優越していると認識し、世俗法の某些の面において他衆生より勝れていると考える。故に内心で自らを高く掲げ、他衆生を欺凌する。
慢は七種に分かれる:慢・過慢・慢過慢・我慢・増上慢・卑劣慢・邪慢。これらは全て所謂「我」によって生じる慢である。故に我慢が根本であり、これによって他の慢が生じる。他の慢は修行によって先ず断除され、我慢は最後に断除される。小乗では四果阿羅漢位で我慢を断ずるが、なお我慢の習気が残る。大乗では初地菩薩位で我慢を断ずるが習気が残り、この我慢の習気は八地菩薩位に至って初めて断尽する。これを見れば習気の根深さが分かる。
我慢の習気とは何か。例えれば、木の上にいる不快な虫が体に落ちた時、普通の人は無意識に直ちに払いのける。考える必要もなく、無意識に速やかに反応できる。これは意根の自我保護習慣であり、思索を仮りせずに危険を回避し、自らの嫌悪するものを拒絶する。これが我慢の習気である。何故衆生は皆この習気を有するのか。衆生の意根が無始劫より永劫にわたり五陰身を我と執着してきたため、この習気が根深い。仮に我見を断ち我慢を除いたとしても、意根の深層にはなお五陰我の概念と念いが残り、習慣的に五陰の影が未だ清除されていない。七・八地の菩薩にして初めてこの我慢の習気を断除できる。阿羅漢は我慢が現行しないようにできるが、初地以上の菩薩位に至って初めて徐々に我慢の習気と貪瞋痴煩悩の習気を断ち始める。阿羅漢の煩悩を断つこともまた煩悩の現行を断つことに留まり、全ての習気は初地以上の菩薩位に至って初めて漸次断除され始めるのである。
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