衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2021年04月13日    火曜日     第3 回の開示 合計3300回の開示

父子合集経講話(二〇七)

我慢と我慢の習気

この無上の菩提は世の中の一切の我慢を消し去ることができる。凡夫の衆生は皆深重なる我慢を有している。何をもって我慢とするか。まず衆生は「我」という存在が実在すると考え、五蘊を我と認める:色身は我、感受は我、見聞覚知は我、想陰は我、身口意行は我、六識の識別性と了別性は我。凡夫はこれを以て我とし、強く我に執着する。我見と我執の心に依る故に我慢心が生じ、自らの五蘊十八界が他の衆生の五蘊十八界より優れていると認識し、世俗法の某些の面において他の衆生より勝れていると考える。それ故に内心で自らを高く掲げ、他の衆生を凌ぐのである。

慢は七種に分かれる:慢・過慢・慢過慢・我慢・増上慢・卑劣慢・邪慢。これらは全て所謂「我」によって生じる慢である。故に我慢は根本であり、これによって他の慢が生じる。他の慢は修行によって先ず断除し、我慢は最後に断除する。小乗では四果阿羅漢の位で我慢を断ずるが、なお我慢の習気が残る。大乗では初地菩薩の位で我慢を断ずるが、習気が残る。この我慢の習気は八地菩薩の位に至って初めて断尽する。これを見れば習気の根深さが分かる。

何をもって我慢の習気とするか。例えれば、木にいる嫌悪すべき虫が身体に落ちた時、普通の人は無意識に直ちに払いのける。考える必要もなく、思考せず、無意識に速やかに反応する。これは意根の自我保護の習慣であり、思索を仮りせず危険を回避し、自らが嫌悪するものを拒絶する。これが即ち我慢の習気である。何故衆生は皆この習気を有するのか。衆生の意根が無始劫以来、五蘊身を我と執着し続けてきたため、この習気が根深く固着している。たとえ我見を断じ我慢を除いたとしても、意根の深層にはなお五蘊我の概念と念いが残り、習慣的に五蘊の影が未だ清除されていない。七・八地の菩薩にして初めてこの我慢の習気を断除できる。阿羅漢は我慢が現行しないようにできるが、初地以上の菩薩位に至って初めて徐々に我慢の習気と貪瞋痴煩悩の習気を断ち始める。阿羅漢が煩悩を断ずるのも煩悩の現行を断ずるのであり、全ての習気は初地以上の菩薩位に至って初めて漸く断除され始めるのである。

——生如法師の開示
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