衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年06月02日    土曜日     第4 回の開示 合計585回の開示

八識の捨受

捨受の特徴は対象に対して無心であり、苦も感じず楽も感じない、苦楽を超えた心境である。八つの識には全て捨受が存在し、第七識の捨受が現れる要因は二つある。第一に、六塵を具体的かつ詳細に弁別できず、痛みや酸味・甘味・苦味などの六塵境界を感知できないため、心中に苦楽の受が生じない。第二に対象とする境界が平静で平淡であり、重大性を帯びていないため苦楽の受が生じず、捨受のみが存在する。一旦六識が重大かつ特別な意味を持つ六塵境界を弁別するに至り、特に自己への影響や意義が通常と異なる場合、意根は苦楽の受を生じ、もはや捨受ではなくなる。この時意根は六識に自身の苦楽の受を表現させる。例えば、踊り上がるほど喜び勇んだり、全身を震わせて怒ったり、慟哭して泣き叫んだりする行為は、全て意根の感情発露である。

六識の捨受は第七識とやや異なる。六識は直接六塵を弁別するが、弁別後も六塵を特に良し悪しと判断せず、中立的で平和的、中庸な心境を保つ。六塵の有無に執着せず、六塵が自己に影響を及ぼすこともなく、好き嫌いも求めも生じない。この状態において六識は六塵に対し苦も楽も感じず、これが六識の捨受である。

如来蔵にも捨受が存在するが、その性質は前七識と異なる。如来蔵の捨受は六塵境界に属さず、六塵万法に対応しない。六塵を対象とせず、弁別も行わないため、六塵を感受しない。従って如来蔵の捨受とは六塵を感じない状態、六塵に対する受の不在を方便的に捨受と称する。これに対し七識の捨受は六塵に対する受であり、六塵に対し興味も嫌悪も抱かぬ状態、六塵を弁別した後も具体的な弁別を加えない受を指す。

如来蔵の捨受は、本来六塵の善悪是非や大小長短円方を弁別できない性質に起因する。故に自心に感受も情緒も生じず、真如の心と妄心の捨受はこの点で区別される。捨受とは対象に対し無関心であり、愛着も嫌悪も抱かぬ状態を指す。六塵を見ても見なくても、あってもなくても構わないという七識心の感受、これが七識の捨受である。

如来蔵の捨受は具体的境界を弁別しない受であり、対象の本質を知らず、定義や概念を持たず、覚観もない。従って第八識は極めて平淡な捨受を有する。更に如来蔵には弁別後の捨受が存在する。何を弁別するかと言えば、衆生の根身器界、業種、七識心行である。七識心行を弁別後も、如来蔵は七識が清浄過ぎるとか汚れ過ぎているなどと判断せず、七識に対し愛憎の情を抱かない。完全な捨受を保ち、七識の心行如何に関わらずその運行に協力する。衆生の業種を弁別しても、この業種が良くあの業種が悪いなどと評価せず、業種を愛着も厭離もせず、あるがままに業種を出力して衆生の応得の果報を実現する。これが如来蔵の捨受である。

如来蔵が衆生の業種を記録・保存する際、この業種は余りに酷いから記録すれば衆生の将来が悲惨になると考え、記録を隠蔽したり保存を止めたりすることはない。同様に衆生の善行を特別に保管したり失わないよう注意することもない。従って如来蔵は衆生の業行に対し楽受も苦受も生じず、完全な捨受を保つ。衆生の根身器界を弁別する際にも、その良し悪しを評価せず、改善しようと意図することはない。故に如来蔵は根身器界に対し苦受も楽受も生じず、完全な捨受の状態にある。

——生如法師の開示
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