衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年12月24日    月曜日     第2開示 合計1124開示

悔いや自責の心はどの心か?

朝起きる時に、ある心は起きようと思い、ある心は起きたくないと思い、結局起きられず、大事なことを遅延させてしまい、それから怒りや悔やみ、自責する。一体誰が悔やんでいるのか、誰が自責しているのか、誰が怒っているのか?

意識には理智がありますが、意根には理智がなく、意識よりも貪りが強く、韻味を貪り、感受を貪ります。朝目覚めた後、意識は理智的に、早く起きて身支度を整え、早めに出かけて用事を済ませるべきだと考えます。しかし意根は韻味を貪るために、比較的怠け心が現れ、起きることを決めず、心地よい感受を貪着します。最後に意識の理智がますます強くなり、絶えず意根にそろそろ起きるべきだと暗示し続け、ついに意根は起きて準備しなければならない、これ以上貪着してはいけないと悟り、やむなく起きて服を着ることを決定します。この決定に対して如来蔵はそれに従って実行し、六識は協力して起きます。この事例から見ると、意根には受があり、必ずしも捨受 (upekṣā-vedanā) であるとは限りません。

寝坊して用事を遅延させたため、最初に怒り、悔やみ、自責するのは必ず意識です。意識は思惟する能力が強く、何を遅延させたのか、どれほど重要であったのかを知っているからです。意識が悔やみ自責した後、意根もまた自分の過ちを知り、後悔や自責をするかもしれません。もし意根が後悔も自責もせず、意識だけが単独で後悔するのであれば、意根は変わらず、次回も同じ過ちを犯し、同じように寝坊して起きられないでしょう。

多くの人が過ちを犯して懺悔し自責しても、その後また犯します。それは意識が懺悔し自責しているのであって、意根が懺悔していないからであり、過ちは繰り返し何度も犯され、記憶に留まりません。犯しては改め、改めては犯すというのは意識であり、以後は軽々しく過ちを犯さなくなるというのは、意根が記憶に留めたということです。肉は改めても骨は改めないというのは、意識の表面的な改めであり、意根は改めず、過ちがあることを認めないということを示しています。

意識がどんな道理を理解しても、実行しようと思っても、主宰することができず、意根を説得して自分の考えに同意させなければならず、あるいは意根を強制的に同意させなければなりません。意根が同意すれば決定し、そこで実行できるのです。もし意根が不承不承で同意し、心の中ではまだ望んでいないのであれば、同じことを次回は必ずしも実行できるとは限りません。意根が道理を理解していないまま、しばしば意識に強制されると、意根の心の中には怨みの気が溜まり、その怨みの気は遅かれ早かれ爆発します。爆発しなければ、心の中は鬱々としてやみません。意識が意根を説得できていない時、いったん監督指導を緩めると、意根の本来の習気が現前します。だから意識の偽りは長くは続かず、必ずボロが出る時が来るのです。

——生如法師の開示
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大乗菩薩の現量智慧

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