意根の思量と意識の分析にはいくつかの区別があります。意識の分析は比較的微細であり、思考の筋道が明瞭です。意根は細部まで緻密に把握することができず、おおまかな状況を知り、概略を考慮し、粗い状態を認識するに留まります。もし意根が触れることのできない法があれば、六識はさらに触れることも弁別することもできません。意根は一切の法を見ることができ、一切の法は意根の相分です。五蘊十八界は意識も見ることができますが、意根はさらに見ることができるため、五蘊十八界は即ち意根の相分となります。
もし意根に様々な受(感受)がある場合、意識はそれを観察することができるでしょうか。例えば、口の利けない者が黄連を食べて苦いと感じても言葉にしない場合、他人はその苦しみを知ることができるでしょうか。苦しみは自心の受けるところであり、他人は推測するしかありません。もし誰もその者が黄連を食べたことを知らなければ、推測することさえできません。もし黄連を食べた者の味覚が鈍っていれば、彼は苦みを感じず、他人が彼の苦しみを推測しても必ず誤りとなるでしょう。意識に智慧がない時、意根の心行を推測し意根の受覚を推し量ることは、往々にして誤りを生じます。
意根の全ての作為は必ず意識を通じて表現され、意識あるいは他者によって初めて知られます。意根が意識を通じて表現されない場合、意根に心理的活動や心行がないと断定できるでしょうか。意識が知らず、観察できない法が、その法の存在しないことを代表するのでしょうか。明らかにそうではありません。凡夫が如来蔵を観察できないからといって、如来蔵は存在せず実体がないと主張するのは、真実の言葉ではありません。同様に、意識が意根の心理状態を観察できないからといって、意根に結論を下すことも適切ではありません。地前の菩薩が証量を有する菩薩の指導を受けなければ、現量をもって意根の心理状態を観察することはできず、したがって意根に結論を下すことは適切ではありません。特に未だ悟りを開いていない者にとってはなおさらです。煩悩の障りが断じ除かれ、意識と意根が識から智へ転換した後に初めて、意識はわずかながら智慧を得て現量をもって意根の運作と心理状態を観察できるようになりますが、必ずしも多くを正確に観察できるわけではありません。
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