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日常法話

2018年06月15日    金曜日     第1開示 合計639開示

如来蔵はいかにして業行を記録し、業種を出力するか(三)

識の種子は本来より如来蔵の中に存在しており、不生不滅である。識の種子を生じる法は存在せず、識の種子は法爾として如来蔵の中に存在しており、その数は非常に膨大ではあるが、総量は固定されている。総量が固定されているならば、識の種子が生じた後、滅した場合、どこに滅するのか。滅した後は、再び如来蔵に戻る。こうして如来蔵の中の識の種子の数は固定されており、絶えず生じ出され、また戻り、送り出され、また戻ることを繰り返すため、その数は変わらない。

如来蔵は常にこれほどの数の種子を用いて七識を生じさせ、識の種子が送り出されることによって七識の心行活動が形成される。七識の心行が生じ出されると、それは染汚・清浄・無記性に分かれる。もし心所法が染汚であれば、七識は染汚の業行を造作し、心所法が清浄であれば、七識は清浄の業行を造作する。そして識の種子が如来蔵の中に戻るとき、七識の心所が造作した心行および了別した内容をすべて如来蔵の中に持ち帰る。これを如来蔵の法爾としての記録と呼び、法爾として衆生の身口意行を蓄積し、将来再び法爾として業種を出力し、法爾として衆生の因縁果報を実現するのである。

しかし、これらすべては如来蔵が能動的に記録するのではなく、能動的に蓄積するのでもなく、能動的に業種を出力しようとするのでもない。如来蔵にはこれらの心行はなく、それは無為法であり、無為の心行は能動的・計画的に何かを造作することはない。すべてはその法爾としての功能体性であり、その本来の働きがこのようであり、存在する作用もまたこのようである。つまり、何らかの心行を持って「必ず衆生の業行を記録し、かつ善悪を区別しなければならない」といったものではない。すなわち、法爾として種子を出力し、識の種子が送り出され、了別・業行を造作した後、識の種子は再び戻る。如来蔵の中に戻るとき、直ちに七識の心行、了別した内容、造作した行為も如来蔵に持ち込まれ、種子として蓄積されるのである。

こうして如来蔵は、七識が了別した内容、七識の心行をも蓄積する。もし心行が善であれば、善種子として如来蔵に蓄えられ、心行が悪であれば、この身口意行は悪業の種子として如来蔵に蓄えられ、心行が不善不悪(無記)であれば、身口意行は無記業として如来蔵に存在する。これが如来蔵の法爾としての記録・蓄積であり、七識の運作、衆生の身口意行はこのようにして記録されるのである。

身口意行が造作されるのと同時に、少しずつ記録され、少しずつ蓄積されている。これらの種子は連続的に出力され、絶え間なく如来蔵に戻る。こうして記録・蓄積された内容は一つの事件を形成する。この事件が完了すると、全体として一つの業種として収蔵される。如来蔵は一点一点と記録し、一点一点と収蔵し、最終的に一つの総合的な業行・業種を形成する。この過程において、ほんのわずかな心行も失われたことはなく、最も微細な心行すら如来蔵は漏らさない。なぜなら、すべての識の種子は連続的・途切れることなく一つずつ如来蔵に戻り、七識が一点を了別すれば一点を蓄積し、再び一点を了別すれば一点を蓄積するため、最終的に了別された内容が連続して、全体として一つの事件となるからである。

この事件全体が善であるか、悪であるか、あるいは無記であるかが、種子として蓄えられる。これらの心行と業行について、如来蔵は少しも変更や変動を加えることはない。如来蔵はまたいかなる選択も行わず、「この業行は記録するが、あの業行は記録しない」といった選択性はない。種子はすべて戻り、戻ったものはすべて蔵(くら)に収蔵される。出力された識の種子が戻った後、了別した内容および造作した内容を持ち帰り、すべてを種子としてこの蔵に蓄えるのである。

蔵に蓄えられた後、将来、縁が熟する時を待って、如来蔵は再び蔵からこれらの識の種子を出力する。これらの識の種子が出力されると、以前の縁が熟した業種も同時に持ち出される。それによって身口意行の造作は、貪瞋痴の性質、あるいは清浄性、あるいは染汚性を帯びることになる。なぜなら、元々蓄えられた種子がそのようなものであったため、この時に再び出力されると、元と同じ清浄さや染汚さを現じるからである。

——生如法師の開示
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如来蔵はどのように業種を記録し、収蔵しているのでしょうか?

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智慧は意根の如来蔵に対する直証の度合いに現れます。

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