問:帯質境、性境、独影境は全て本質境から伝導されて変化したものなのか?三境の顕現は順序を持つべきではないだろうか?第七識が第六識の縁じ得ない法を縁じるということは、帯質境と本質境が比較的近いことを示しているのか?しかし法塵には色声香味触塵に基づくものもあり、色塵は法塵よりも実在性が高いはずでは?だとすれば性境は帯質境よりも本質に近いのか?全ての境は本質境から伝導されて変化したものだとすれば、全ての境は物質的な色法に属するのか?
答:独影境は本質境から伝導されてきたものではない。独影境は本質境上のいかなる質も帯びていないと言える。そうでなければ真帯質境と仮帯質境と呼ばれることになる。五俱意識は帯質境の部分に対応し、一般的には仮帯質境に属する。一方、独影境は独頭意識が対応する部分であり、質とは無関係で、如来蔵が別に顕現させた境界相である。
仮帯質境と独影境は同時に現れることがある。五俱意識と独頭意識は同時に出現し、同時に出現する際にはそれぞれが対応する境界相を別々に認識する。この状態は「上の空」すなわち心ここにあらずと言え、意識心が完全には仮帯質境に留まっておらず、分かれて独頭意識が独影境に対応しているのである。この分かれた独頭意識もまた意根の意思に基づいて生み出されたものであり、意根が注意を分散させなければ意識は分散しない。例えば、向かいの人の話を聞きながら、五俱意識が聞きつつ、独頭意識が別の人や別の場面を思い浮かべたり、ある問題を思考したりする場合である。相手の話を聞くことは意根が決定し、別の人を思い出すなどは意根が指示する。意根が注意を分散させ他の法に注目すれば、意識は必ず分散して他の法を処理する。
性境と帯質境の顕現には前後順序があるが、その順序を観察することはほとんど不可能であり、禅定力のない者は全ての法を同時に見ていると感じる。独影境の出現は時と場所を選ばず、性境・帯質境の前後あるいは同時に起こり得る。独影境は一般的に妄想雑念の境であり、衆生の心は散乱して秩序がなく、常に雑念が叢生し、独影境は絶え間なく妄想が飛び交っている。第七識は真帯質境に対応し、第六識は仮帯質境に対応する。仮は真よりもさらに虚妄で実体性が薄いため、第七識が対応する真帯質境の方が本質境に近い。顕現する時間から見ると、真帯質境が最初に現れ、それが勝義根まで変化して初めて仮帯質境が現れ、意識による了別が可能となる。しかしこの時点では真帯質境よりも数刹那遅れており、法については意根が既に了別を終えた後で意識が生起して了別する。そのため時には意識が反応しないうちに処理が終わり、後で振り返って初めて状況が分かることもある。
色塵(五塵境)は性境であり、法塵である帯質境よりも粗雑で認識・知覚が容易く、境界相がより顕著である。法塵はより微細で弁別が難しく、智慧が不足していると誤りやすい。したがって聡明さと智慧は法塵の了別と判断に現れる。一般的に、聡明とは意識が持つ特性を指し、智慧とは意根が持つ特性を指す。聡明は浅薄で柔軟、智慧は深沈で重厚かつ隠微である。聡明は変化に富み信頼性に欠け、智慧は堅固で長続きするため信頼できる。よって意識は信頼できず、意根は長く信頼できるのである。
本質境、性境、帯質境はいずれも四大の成分を含み、物質的な色法である。本質境が最も真実かつ完全で、法のあらゆる情報(五塵と法塵を含む)を含む。性境は五塵の情報のみを含み、勝義根内の帯質境は法塵の情報のみを含む。一方、勝義根外の帯質境もまた法の全情報(五塵と法塵を含む)を含む。したがって意根が最初に了別するのは比較的完全な情報であり、独立して了別し決断することができる。一方、意識は勝義根内の法塵のみを了別でき、必ず五識と同時に了別する必要がある。こうして五識が了別した五塵情報と、五俱意識が了別した法塵情報の二つが合わさり、意根に伝達される。意根が了別するのは常に完全な法の情報なのである。
これは作主識(意根)の特性と権威性を体現している。もし意根が一部の情報しか了別しないのであれば、どうして正しく理にかなった迅速な思量を行い、その後決断を下し指令を発することができようか? したがって、もし意根が仏法を証得できないのであれば、意識が証得するものは何であろうか? それは信頼できるのか? 完全なのか? 理にかなっているのか? 意味があるのか? 意識は半盲人の如く、法の一部しか見ることができず、五識の見る法と合わさって初めて完全な法となる。どうして意識が作主となり得ようか? もし意識が作主となれば五蘊は大混乱に陥るのではないか?
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