さらにまた、身の空界を観じる。常にこの観法を修めれば、欲力・精進力・一心力・慧力が極めて広大となり、ついに身を挙げることができるようになる。大風の力が重いものを遠くに運ぶごとく、これもまた同じである。初めは自ら試みて、地面より一尺二尺離れ、次第に一丈に至り、再び元の場所に戻るべきである。雛鳥が飛ぶことを学び、幼児が歩みを習うが如し。思惟して自らを審らかにし、心力の大きさを知れば、必ず遠方に至ることができる。
四大を観じて地大を除き、ただ三大を観ずることを学ぶ。心念が散乱しなければ、自在を得て身に障碍なく、鳥の飛行の如くなる。さらに修習して、遠きを近きと想うべし。故に近きを滅して遠きに出ず。
なぜ遠きを近きと想い、空間の距離という考えを滅すれば、身は瞬時に遠方に到達し、あたかも近きに在るが如くなるのか。このように想う時、意根は真実を信じ、意根が確かに信じれば、如来蔵は必ず意根に随順してこのような境界を現出させる。神通もまた如是く、一切の法もまた如是し。意根の信ずる所に従って現れ、意根を転換すれば一切を転換し得る。
真実の自信とは即ち意根の信なり。ただ意根が信ずれば、成し遂げられざる事なし。成仏の原理もまたこの如し。されば意根が無我を証得し、無我を信じる時、その無我の力いかほど大いならんか。我執と一切の煩悩を断じ、一切の我を滅して心解脱を得、寂静涅槃に入るのである。
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