妄見とは、その名の通り妄心である七識の見であり、六識・七識の見が主で、最も明瞭で最も反観し感知しやすいのは意識の見です。衆生とは五蘊を指し、また意根を指します。そして衆生の見とは、精神の五蘊の見、意根の見、あるいは六識の見のことです。七識の見に対応して、如来蔵の見というものもありますが、如来蔵の見は決して五蘊世間に落ち入ることはありません。つまり如来蔵には世間の見がなく、世俗の見がなく、祂の見も表現することができません。一旦表現されれば世俗の言語文字の中に落ち入り、それはもはや如来蔵の見ではなくなるのです。だから、証果や証悟、見法見道といったら、必ず七識の見と証であり、如来蔵はこれらを見ません。
したがって、如来蔵を見るというのも七識の見です。七識が見た後、五蘊の我を否定することはできても、もし如来蔵を真実のもう一つの我とみなせば、我見は断じ尽くされておらず、これは依然として一種の我見あるいは我所見です。なぜなら、法界の中にはそもそも五蘊七識のような我など存在しないからです。我がないのに、どうして如来蔵は真我だというような観念があってよいでしょうか。究竟の意味から言えば、根本である七識の自体性がなく、いかなる我性もありません。もし如来蔵は真我だという知見を確立すれば、同時に一つの七識我を確立したことになります。七識我があってこそ、如来蔵を真実の我とみなすのであり、七識がなければいかなる法も我とみなすことはありません。もちろん、ある期間内はそのように言うことも、そのように方便的に表現することもできますが、一定のところまで修めたなら、心の中のこのような観念は滅して捨て去らなければなりません。禅宗の第三関まで修めたとき、もし心の中にまだ如来蔵我を執着しているならば、禅宗の第三関を通過することはできず、有余依涅槃を証得することはできず、生死を離れて解脱を得ることはできません。それゆえ、見法である限りそれは妄見であり、妄見のないとき、必ず仏となるのです。
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